翌朝になると、やがて役所へ出頭する時が来た。半蔵は供の平兵衛を門内に待たせて置いて、しばらく待合所に控えていた後、さらに別室の方へ呼び込まれた。上段に居並ぶ年寄、用人などの前で、きびしいおしかりを受けた。その意味は、官軍|先鋒《せんぽう》の嚮導隊《きょうどうたい》などととなえ当国へ罷《まか》り越した相良惣三《さがらそうぞう》らのために周旋し、あまつさえその一味のもの伊達《だて》徹之助に金子二十両を用だてたのは不埓《ふらち》である。本来なら、もっと重い御詮議《ごせんぎ》もあるべきところだが、特に手錠を免じ、きっと叱《しか》り置く。これは半蔵父子とも多年御奉公申し上げ、頼母子講《たのもしこう》お世話方も行き届き、その尽力の功績も没すべきものでないから、特別の憐憫《れんびん》を加えられたのであるとの申し渡しだ。
「はッ。」
半蔵はそこに平伏した。武家の奉公もこれまでと思う彼は、甘んじてそのおしかりを受けた。そして、屋敷から引き取った。
「青山さん。」
うしろから追いかけて来て、半蔵に声をかけるものがある。ちょうど半蔵は供の平兵衛と連れだって、木曾福島を辞し、帰村の道につこうとしたばかりの時だ。街道に添うて旅人に道を教える御嶽《おんたけ》登山口、路傍に建てられてある高札場なぞを右に見て、福島の西の町はずれにあたる八沢というところまで歩いて行った時だ。
「青山さん、馬籠の方へ今お帰り。」
ときく人は、木曾風俗の軽袗《かるさん》ばきで、猟師筒を肩にかけている。屋敷町でない方に住む福島の町家の人で、大脇自笑《おおわきじしょう》について学んだこともある野口秀作というものだ。半蔵は別にその人と深い交際はないが、彼の知る名古屋藩士で田中|寅三郎《とらさぶろう》、丹羽淳太郎《にわじゅんたろう》なぞの少壮有為な人たちの名はその人の口から出ることもある。あうたびに先方から慣れ慣れしく声をかけるのもその人だ。
「どれ、わたしも御一緒にそこまで行こう。」とまた秀作は歩き歩き半蔵に言った。「青山さん、あなたがお見えになったことも、お役所へ出頭したことも、きのうのうちに町じゅうへ知れています。えゝえゝ、そりゃもう早いものです。狭い谷ですからね。ここはあなた、うっかり咳《せき》ばらいもできないようなところですよ。福島はそういうところですよ。ほんとに――この谷も、こんなことじゃしかたがない。あなたの前ですが、この谷には、てんで平田の国学なぞははいらない。皆、漢籍一方で堅めきっていますからね。伊那から美濃地方のようなわけにはいかない。どうしても、世におくれる。でも青山さん、見ていてください。福島にも有志の者がなくはありませんよ。」
口にこそ出さなかったが、秀作は肩にする鉄砲に物を言わせ、雉《きじ》でも打ちに行くらしいその猟師筒に春待つ心を語らせて、来たるべき時代のために勤王の味方に立とうとするものはここにも一人《ひとり》いるという意味を通わせた。
思いがけなく声をかけられた人にも別れて、やがて半蔵らはさくさく音のする雪の道を踏みながら、塩淵《しおぶち》というところまで歩いた。そこは山の尾をめぐる一つの谷の入り口で、西から来るものはその崖《がけ》になった坂の道から、初めて木曾福島の町をかなたに望むことのできるような位置にある。半蔵は帰って行く人だが、その眺望《ちょうぼう》のある位置に出た時は、思わず後方《うしろ》を振り返って見て、ホッと深いため息をついた。
三
木曾の寝覚《ねざめ》で昼、とはよく言われる。半蔵らのように福島から立って来たものでも、あるいは西の方面からやって来るものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曾路を踏んで見るもののひとしく経験するところである。そこに名物の蕎麦《そば》がある。
春とは言いながら石を載せた坂屋根に残った雪、街道のそばにつないである駄馬《だば》、壁をもれる煙――寝覚の蕎麦屋あたりもまだ冬ごもりの状態から完全に抜けきらないように見えていた。半蔵らは福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めようと思うころには、そろそろ食事を終わって出発するような伊勢参宮の講中もある。黒の半合羽《はんがっぱ》を着たまま奥の方に腰掛け、膳《ぜん》を前にして、供の男を相手にしきりに箸《はし》を動かしている客もある。その人が中津川の景蔵だった。
偶然にも、半蔵はそんな帰村の途中に、しかも寝覚《ねざめ》の床《とこ》の入り口にある蕎麦屋の奥で、反対の方角からやって来た友人と一緒になることができた。景蔵は、これから木曾福島をさして出掛けるところだという。聞いて見ると、地方《じかた》御役所からの差紙《さしがみ》で。中津川本陣としてのこの友人も、やはり半蔵と同じような呼び出され方で。
「半蔵さん、これはなんと
前へ
次へ
全105ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング