集した原生林と迫った山とにとりかこまれた対岸の傾斜をなした位置に、その役所がある。そこは三棟《みむね》の高い鱗葺《こけらぶ》きの屋根の見える山村氏の代官屋敷を中心にして、大小三、四十の武家屋敷より成る一区域のうちである。
 役所のなかも広い。木曾谷一切の支配をつかさどるその役所には、すべて用事があって出頭するものの待ち合わすべき部屋《へや》がある。馬籠から呼び出されて行った半蔵はそこでかなり長く待たされた。これまで彼も木曾十一宿の本陣問屋の一人《ひとり》として、または木曾谷三十三か村の庄屋の一人として、何度福島の地を踏み、大手門をくぐり、大手橋を渡り、その役所へ出頭したかしれない。しかし、それは普通の場合である。意味ありげな差紙《さしがみ》なぞを受けないで済む場合である。今度はそうはいかなかった。
 やがて、足軽《あしがる》らしい人の物慣れた調子で、
「馬籠の本陣も見えております。」
 という声もする。間もなく半蔵は役人衆や下役などの前に呼び出された。その中に控えているのが、当時佐幕論で福島の家中を動かしている用人の一人だ。おもなる取り調べ役だ。
 その日の要事は、とかくのうわさを諸藩の間に生みつつある偽《にせ》官軍のことに連関して、一層街道の取り締まりを厳重にせねばならないというにあったが、取り調べ役はただそれだけでは済まさなかった。右の手に持つ扇子《せんす》を膝《ひざ》の上に突き、半蔵の方を見て、相良惣三ら一行のことをいろいろに詰問した。
「聞くところによると、小諸《こもろ》の牧野遠江守《まきのとおとうみのかみ》の御人数が追分《おいわけ》の方であの仲間を召し捕《と》りの節に、馬士《まご》が三百両からの包み金《がね》を拾ったと申すことであるぞ。早速《さっそく》宿役人に届け出たから、一同立ち会いの上でそれを改めて見たところ、右の金子《きんす》は賊徒が逃げ去る時に取り落としたものとわかって、総督府の方へ訴え出たとも申すことであるぞ。相良惣三の部下のものが、どうして三百両という大金を所持していたろう。半蔵、その方はどう考えるか。」
 そんな問いも出た。
 その席には、立ち会いの用人も控えていて、取り調べ役に相槌《あいづち》を打った。その時、半蔵は両手を畳の上について、惣三らの一行が馬籠宿通行のおりの状況をありのままに述べた。尾張領通行のみぎりはあの一行のすこぶる神妙であったこと、ただ彼としては惣三の同志|伊達徹之助《だててつのすけ》の求めにより金二十両を用立てたことをありのままに申し立てた。
「偽役《にせやく》のかたとはさらに存ぜず、献金なぞいたしましたことは恐れ入ります。」
 そう半蔵は答えた。
「待て、」と取り調べ役が言った。「その方もよく承れ。近ごろはいろいろな異説を立てるものがあらわれて来て、実に心外な御時世ではある。なんでも悪い事は皆徳川の方へ持って行く。そういう時になって来た。まあ、あの相良惣三《さがらそうぞう》一味のものが江戸の方でしたことを考えて見るがいい。天道にも目はあるぞ。おまけに、この街道筋まで来て、追分辺で働いた狼藉《ろうぜき》はどうだ。官軍をとなえさえすれば、何をしてもいいというものではあるまい。」
「さようだ。」と言い出すのは火鉢《ひばち》に手をかざしている立ち会いの用人だ。「貴殿はよく言った。実は、拙者もそれを言おうと思っていたところでござる。」
「いや、」とまた取り調べ役は言葉をつづけた。「御同役の前でござるが、あの御征討の制札にしてからが、自分には腑《ふ》に落ちない。今になって、拙者はつくづくそう思う。もし先帝が御在世であらせられたら、慶喜公に対しても、会津や桑名に対しても、こんな御処置はあらせられまいに……」


 今一度改めて出頭せよ、翌朝を待ってなにぶんの沙汰《さた》があるであろう、その役人の声を聞いたあとで、半蔵は役所の門を出た。馬籠から供をして来た峠村の組頭《くみがしら》、先代平助の跡継ぎにあたる平兵衛《へいべえ》がそこに彼を待ち受けていた。
「半蔵さま。」
「おゝ、お前はそこに待っていてくれたかい。」
「そうよなし。おれも気が気でないで、さっきからこの御門の外に立ち尽くした。」
 二人《ふたり》はこんな言葉をかわし、雪の道を踏んで、大手橋から旅籠屋《はたごや》のある町の方へ歩いた。
 木曾福島も、もはや天保文久年度の木曾福島ではない。創立のはじめに渡辺方壺《わたなべほうこ》を賓師に、後には武居用拙《たけいようせつ》を学頭に、菁莪館《せいがかん》の学問を誇ったころの平和な町ではない。剣術師範役|遠藤《えんどう》五平太の武技を見ようとして、毎年馬市を機会に諸流の剣客の集まって来たころの町でもない。まして、木曾から出た国家老《くにがろう》として、名君の聞こえの高い山村|蘇門《そもん》(良由)
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