の香がその店先までにおって来ている。
久兵衛は自分で茶を入れて来た。それを店先へ運んで来た。その深い茶碗《ちゃわん》の形からして商家らしいものを正香らの前に置き、色も香ばしそうによく出た煎茶《せんちゃ》を客にもすすめ、自分でも飲みながら、
「館松《たてまつ》さんは、もう錦小路《にしきこうじ》(鉄胤の寓居《ぐうきょ》をさす)をお訪《たず》ねでございましたか。」
こんな話を始めかけると、入り口の障子のあく音がして、家のものが一緒に異人見物からどやどやと戻《もど》って来た。とうとう英国公使だけは見えなかったと言うものがある。こっそりそばへ行ってあのオランダ人のにおいをかいで見たら、どんな異人臭いものかと言うものがある。「いやらし、いやらし」などと言う若い娘の声もする。
隠れたところにいて同門の人たちのために働いているような久兵衛は、先師稿本の類が伊那の方に移されたことを聞いたあとで、さらに話しつづけた。
「さぞ老先生(鉄胤のこと)も御安心でございましょう。」
「なにしろ、王政復古の日が来たばかりのごたごたした中で、七十何里もあるところに運搬しようというんですから。」と正香が言って見せる。
「そいつは、なかなか。」と久兵衛も言う。
「いや、」と縫助はその話を引き取った。「わたしが江戸へ出ました時は、平田家でも評議の最中でした。江戸も騒がしゅうございましたよ。早速《さっそく》、お見舞いを申し上げて、それから保管方を申し出ましたところ、大変によろこんでくださいました。道中が心配になりましたから、護《まも》りの御符《ごふ》は白河家《しらかわけ》(京都|神祇伯《じんぎはく》)からもらい受けました。それを荷物に付けるやら、自分で宰領をするやらして、たくさんな稿本や書類を馬で運搬したわけなんです。昨年、十二月の十八日に座光寺へ着きましたが、あの時は北原稲雄もわたしの手を執ってよろこびました。田島の前沢万里、今村|豊三郎《とよさぶろう》、いずれもこの事には心配して、路用なぞを出し合った仲間です。」
こんな話が尽きなかった。
旅にある縫助はその日と翌日とを知人の訪問に費やし、出て来たついでに四条の雛市《ひないち》を見、寄れたら今一度正香のところへも寄って、京都を辞し去ろうという人であった。彼は正香の言うように、それほどこの復興の京都に浸《ひた》って見る時を持たないまでも、ともかくも師鉄胤の家を訪ね、正香と旧《ふる》い交わりを温《あたた》め、伊勢久の店先に旅の時を送るというだけにも満足していた。
この縫助が礼を述べて立ちかけるので、久兵衛はそれを引きとめるようにして、
「オヤ、もうお帰りでございますか。何もおかまいいたしませんでした。」
その時、久兵衛は染め物屋らしいことを言い出した。昨年の三月、諒闇《りょうあん》の春を迎えたころから再度の入洛を思い立って来て、正香らと共にずっと奔走を続けていた人に中津川本陣の浅見景蔵がある。東山道|先鋒《せんぽう》兼|鎮撫《ちんぶ》総督の一行が美濃《みの》を通過すると知って、にわかに景蔵は京都の仮寓《かぐう》を畳《たた》み、郷里をさして帰って行った。その節、注文の染め物を久兵衛のもとに残した。こんな街道筋の混雑する時で、それを送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいというのであった。
「暮田さん、あなたからもお願いしてください。」と久兵衛は手をもみもみ言った。「初めてお目にかかったかたに、こんなことをお願いしちゃ失礼ですけれど。」
「なあに、そこは万国公法の世の中だもの。」と正香が戯れて見せた。
「それ、それ、」と久兵衛も軽く笑って、「近ごろはそれが大流行《おおはやり》。」
「縫助さん、君もその意気で預かって行くさ。」とまた正香が言い添える。
「暮田さんらしいトボけたことを言い出したぞ。」と縫助まで一緒になって笑い出した。「わたしも今度京都へ出て来て見て、皆が万国公法を振り回すには驚きましたね。では、こうします。立つ前に、もう一度暮田さんを訪《たず》ねます。その時に伊勢屋さんへもお寄りします。」
英国公使パアクスの上京には新政府でもことに意を用いた。大坂を立つ時は小松|帯刀《たてわき》と伊藤俊介とが付き添い、京都にはいった時は中井弘蔵と後藤象次郎とが伏見|稲荷《いなり》の辺に出迎え、無事に智恩院の旅館に到着した。この公使の一行が赤い軍服を着けた英国の護衛兵(いわゆる赤備兵)を引率し、あるいは騎馬、あるいは駕籠《かご》で、参内のために智恩院新門前通りから繩手通《なわてどお》りにかかった時だ。そこへ二人の攘夷家が群集の中から飛び出したのであった。かねて新政府ではこんなことのあるのを憂い、各藩からは二十人以上の兵隊を出させ、通
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