那の谷のような安全地帯へ先師の稿本類を移したい、一時それを平田家から預かって保管したい、それにはだれか同門のうちで適当な人物を江戸表へ送りたいとなった。その使者に選ばれたのが館松縫助なのだ。縫助はその役目を果たし、稿本類の全部を江戸から運搬して来て、首尾よく座光寺村に到着したのは前年の暮れのことであった。当時そのことは京都にある師|鉄胤《かねたね》のもとへ書面で通知してあったが、なお、縫助は今度の上京を機会に、その報告をもたらして来たのである。
正香としては、このよろこばしい音信《おとずれ》を伊勢久の亭主《ていしゅ》にも分けたかった。日ごろ懇意にする亭主に縫助をあわせ、縫助自身の口から故翁の草稿物の無事に保管されていることを亭主にも聞かせたかった。染め物屋とは言いながら、理解のある義気に富んだ町人として、伊勢屋|久兵衛《きゅうべえ》の名は縫助もよく聞いて知っている。
「どうです、縫助さん、出て来たついでだ。一つ伊勢久へも寄っておいでなさるサ。」
と言って、正香は連れを誘った。
御染物所。伊勢屋とした紺暖簾《こんのれん》の見える麩屋町のあたりは静かな時だ。正香らが店の入り口の腰高な障子をあけて訪れると、左方の帳場格子《ちょうばごうし》のところにただ一人留守居顔な亭主を見つけた。ここでも家のものや店員は皆、異人見物の方に吸い取られている。
「これは。これは。」
正香と連れだっての縫助の訪問が久兵衛をよろこばせた。
「さあ、どうぞ。」
とまた久兵衛は言いながら、奥から座蒲団《ざぶとん》などを取り出して来て、その帳場格子のそばに客の席をつくった。
久兵衛もまた平田門人の一人であった。この人は町人ながらに、早くから尊王の志を抱《いだ》き、和歌をも能《よ》くした。幕末のころには、彼のもとをたよって来る勤王の志士も多かったが、彼はそれを懇切にもてなし、いろいろと斡旋《あっせん》紹介の労をいとわなかった。文久年代に上京した伊那|伴野《ともの》村の松尾多勢子《まつおたせこ》、つづいて上京した美濃中津川《みのなかつがわ》の浅見景蔵《あさみけいぞう》、いずれもまず彼のもとに落ちついて、伊勢屋に草鞋《わらじ》をぬいだ人たちだ。南信東濃地方から勤王のため入洛《じゅらく》を思い立って来る平田の門人仲間で、彼の世話にならないものはないくらいだ。
「この正月になりましてから、伊那からもだいぶお見えでございますな。」
と久兵衛は縫助に言って見せて、王政復古の声を聞くと同時に競って地方から上京して来るもの、何がな王事のために尽くそうとするものなぞの名を数えた。祭政一致をめがけて神葬古式の復旧運動に奔走する倉沢|義髄《よしゆき》と原|信好《のぶよし》、榊下枝《さかきしずえ》の変名で岩倉家に身を寄せる原|遊斎《ゆうさい》、伊那での長い潜伏時代から活《い》き返って来たような権田直助《ごんだなおすけ》、その弟子《でし》井上頼圀《いのうえよりくに》、それから再度上京して来て施薬院《せやくいん》[#「施薬院」は底本では「施楽院」]の岩倉家に来客の応接や女中の取り締まりや子女の教育なぞまで担当するようになった松尾多勢子――数えて来ると、正月以来京都に集まっている同門の人たちは、伊那方面だけでも久兵衛の指に折りきれないほどあった。そう言えば、師の平田鉄胤も今では全家をあげて京都に引き移っていて、参与として新政府の創業にあずかる重い位置にある。
「どれ、お茶でも差し上げて、それからお話を伺うとしましょう。あいにく、家のものを皆出してしまいました。」
そう言いながら久兵衛は奥の方へ立って行って、こまかい大坂格子のかげで茶道具などを取り出す音をさせた。
その時、正香はそこの店先にすわり直して、縫助と二人で話した。
「久兵衛さんもおもしろい人ですね。この店では篤胤先生の本を売りますよ。気吹《いぶき》の舎《や》の著述なら、なんでもそろえてありますよ。染め物のほかに、官服の注文にも応じるしサ。まあ商売《あきない》をしながら、道をひろめているんですね。」
「へえ、これはよいお店だ。」
その店先は、亭主が帳場格子のところにいて染め物の仕事場を監督する場所である。正香は仕事場の方を縫助にさして見せた。入り口から裏の物干し場へ通りぬけられるような土間をへだててその仕事場がある。そこはなかなか広い仕事場であるが、周囲の格子をしめきるとすこぶる薄暗い。しかし三尺もの下壁と言わず、こまかく厚手なぶッつけ格子と言わず、がっしりとした構造は念の入ったものである。正香はまた、四つずつ一組としてある藍瓶《あいがめ》を縫助にさして見せた。わざと暗くしてあるような仕事場の格子を通して、かすかな光線がそこにさし入っている。幾組か並んだ瓶《かめ》の中の染料には熱が加えてあると見えて、静かに沸く藍
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