くもにわかに方向を転換することは、朝廷も徳川氏に対して御遠慮あるべきはずである。先帝にもこの事にはすこぶる叡慮を悩ませられたと言って、大原卿はその心配をひそかに松平春嶽にもらしたという。

 当時、京都は兵乱のあとを承《う》けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸|堺《さかい》の暴動、およびその処刑の始末等はひどく攘夷の党派に影響を及ぼし、人心の激昂《げきこう》もはなはだしい。この際、公使謁見の接待を命ぜられた新政府の人たち、小松|帯刀《たてわき》、木戸準一郎、後藤象次郎《ごとうしょうじろう》、伊藤俊介、それに京都旅館の準備と接待とを命ぜられた中井|弘蔵《こうぞう》なぞは、どんな手配りをしてもその勤めを果たさねばならない。京都にある三大寺院は公使らの旅館にあてるために準備された。三藩の兵隊はまた、それぞれの寺院に分かれて宿泊する公使らを衛《まも》ることになった。尾州兵は智恩院《ちおんいん》。薩州兵は相国寺《しょうこくじ》。加州兵は南禅寺《なんぜんじ》。


 外国使臣一行の異様な行装《こうそう》を見ようとして遠近から集まって来た老若男女の群れは京都の町々を埋《うず》めた。三国公使とも前後して伏見街道から無事に京都の旅館に到着した翌々日だ。その前日は雨で、一行はいずれも騎馬、あるいは駕籠《かご》を用い、中井、伊藤らの官吏に伴われながら、新政府の大官貴顕と聞こえた三条、岩倉、鍋島《なべしま》、毛利、東久世の諸邸を回礼したと伝えらるることすら、大変な評判になっているころだ。
 いよいよその日の午後には、新帝も南殿に出御《しゅつぎょ》して各国代表者の御挨拶《ごあいさつ》を受けさせられる、公使らの随行員にまで謁見を許される、その間には楽人の奏楽まである、このうわさが人の口から口へと伝わった。新政府の処置挙動に不満を抱《いだ》くものはもとより少なくない。こんな外国の侵入者がわが禁闕《きんけつ》の下《もと》に至るのは許しがたいことだとして、攘夷の決行されないのを慷慨《こうがい》するものもある。官吏ともあろうものが夷狄《いてき》の輩《ともがら》を引いて皇帝陛下の謁見を許すごときは、そもそも国体を汚すの罪人だというような言葉を書きつらね、係りの官吏および外国公使を誅戮《ちゅうりく》すべしなどとした壁書も見いだされる。腕をまくるもの、歯ぎしりをかむものは、激しい好奇心に燃えている
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