へ来た官吏は目さとくそれを見つけて、
「ホ。君は日本の煙草をおやりですか。」
 と不思議そうに尋ねる。
 カションはフランス人らしく肩をゆすった。さらに別のかくしから燧袋《ひうちぶくろ》まで取り出した。彼はその船中で眼前に展開する河内《かわち》平野の景色でもながめながら一服やることを楽しむばかりでなく、愛用する平たい鹿皮《しかがわ》の煙草入れのにおいをかいで見たり、刀豆形《なたまめがた》の延べ銀の煙管《きせる》を退屈な時の手なぐさみにしたりするだけにも、ある異国趣味の満足を覚えるというふうの男だ。やがて彼は煙管を口にくわえて、さもうまそうに刻みの葉をふかしていた。燧石《ひうちいし》を打つ手つきから、燃えついた火口《ほくち》を煙草に移すまで、その辺は彼も慣れたものだ。それを見ると官吏は目を円《まる》くして、こんな人も西洋人の中にあるかという顔つきで、
「へえ、君はなかなかよく話す。」
「どういたしまして。」
「へたな日本人は、かないませんよ。」
「それこそ御冗談でしょう。」
「だれから君はそんな日本語をお習いでしたか。」
「わたしですか。蝦夷《えぞ》の方にいた時分でした。函館奉行《はこだてぶぎょう》の組頭《くみがしら》に、喜多村瑞見《きたむらずいけん》という人がありまして、あの人につきました。その時分、わたしは函館領事館に勤めていましたから。そうです、あの喜多村さんがわたしの教師です。なかなか話のおもしろい人でした。漢籍にもくわしいし、それに元は医者ですから、医学と薬草学の知識のある人でした。わたしはあの人にフランス語を教える、あの人はわたしに日本語を教えてくれました。あの時分は、喜多村さんも若かったし、わたしもまだ……」
「喜多村瑞見と言えば、聞いたことがある。幕府の使節でフランスの方へ行ってるあの喜多村じゃありませんか。」
「そうです。その喜多村さんです。」
 それを聞くと、相手の官吏は急にきげんを悪くして、口をつぐんでしまった。その時、カションは局外中立である自分ら外国人が旧《ふる》い教師のうわさをするのは一向差しつかえはあるまいというふうで、半分ひとりごとのように言った。
「あの人も驚いていましょう。日本の国内に起こったことを聞いたら、驚いてパリから帰って来ましょう。」


 よく耕された平野の光景は行く先にひらけた。そのよろこびが公使の一行をじっとさして置か
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