預けるような相談も出た。山階《やましな》の宮《みや》も英国の軍艦までおいでになって、仏国全権ロセスに面会せられ、五か条の中の一か条で御挨拶《ごあいさつ》があった。この事を心配した土佐の山内容堂が病気を押して国もとから大坂に着いた日の後には、償金十五万両を三度に切って、フランス国に陳謝の意を表するほか、十一人の遺族、七人の負傷者のために土佐藩から贈るような日が続いた。
四
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「先達《せんだっ》て布告に相成り候《そうろう》各国の中《うち》、仏英蘭公使、いよいよ来たる二十七日大坂表出発、水陸通行、同夜|伏見表《ふしみおもて》に止宿、二十八日上京仰せいだされ候。右については、かねて御沙汰《ごさた》のとおり、すべて万国公法をもって御交際遊ばされ候儀につき、一同心得違いこれなきよう、藩々においても厳重取り締まりいたすべく仰せいだされ候事。」
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この布告が出るころには、米国、伊国、普国の公使らはもはや大坂にいなかった。亡《な》きフランス軍人のために神戸外人墓地での葬儀が営まれるのを機会に、関東方面の形勢も案じられると言って、横浜居留地をさして大坂から退いて行った。後には、上京のしたくにいそがしい英国、仏国、オランダの三公使だけが残った。
外人禁制の都、京都へ。このことが英公使パアクスをよろこばせた上に、彼にはこの上京につけて心ひそかな誇りがあった。今や日本の中世的な封建制度はヨーロッパ人の東漸《とうぜん》とともに消滅せざるを得ない時となって来ている、それを見抜いたのが前公使のアールコックであり、また、新社会構成のために西方諸藩の人たちを助けてこの革命を成就《じょうじゅ》せしめようとしているものも、そういう自分であるとの強い自負心は絶えず彼の念頭を去らない。このパアクスは、年若な日本の政事家の多い新政府の人たちを自分の生徒とも見るような心構えでもって、例の赤備兵《あかぞなえへい》の一隊を引き連れ、書記官ミットフォードと共に二十七日にはすでに上京の途についた。
仏国公使ロセスと、オランダ代理公使ブロックとの出発は、それより一日おくれた。これは途中の危険を慮《おもんぱか》り、かつその混雑を防ごうとする日本委員の心づかいによる。神戸三宮事件に、堺旭茶屋事件に、御一新早々|苦《にが》い経験をなめさせられたのも、そういう新
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