った。乗組員のうち、わずかに一人《ひとり》だけが水を泳ぎきって無事にその場をのがれたこともわかって来た。フランス側に言わせると、軍港でもないところの海底の深浅を測量したからとて、そのために外国人を斃《たお》すとは何事であるか、もしその行為が不当であるなら乗組員を諭《さと》して去らしめるがいい、それでも言うことをきかなかったら抑留して仏国領事に引き渡すがいい、日本に在留したヨーロッパ人、ないしアメリカ人の身に罪なくして命を失ったものはすでに三十人に及んでいるとの言い分である。
「申し上げます。明後二十三日には堺の妙国寺で、土佐の暴動人に切腹を言い付けるそうでございます。つきましては、フランス側の被害者は、即死四人、手負い七人、行くえ知れず七人でありましたから、土佐のものも二十人ぐらいでよろしかろうということで、関係者二十人に切腹を言い付けるそうでございます。」
「気の毒なことだが、いたし方ない。暴動人の処刑は先方のきびしい請求だから。」
東久世家の執事と通禧とは、こんな言葉をかわした。
「では、五代才助と上野敬助の両人に、当日立ち会うようにと、そう言ってやってください。」
と通禧は言い添えた。
妙国寺に土州兵らの処刑があったという日の夕方には、執事がまた通禧のところへ来て言った。
「今日は土佐家から、客分の家老職に当たります深尾康臣《ふかおやすおみ》も検使として立ち会ったと申してまいりました。鬮引《くじび》きで、切腹に当たる者を呼び出したということですが、なかなか立派であったそうで――辞世なぞも詠《よ》みましたそうで。ところが、切腹を実行して十一人目になりますと、そこに出張していたフランスの士官から助命の申し出がありました。あまり気の毒だから、切腹はもうおやめなさいと申したそうでございます。いや、はや、慷慨家《こうがいか》の寄り集まりで、仏人からそう申しても、ぜひ切ると言った調子で、聞き入れません。これには五代氏も止めるがいいと言い出しまして、切腹、罷《まか》りならぬ、そう厳命で止めさせたと承りました。」
この「切腹、罷りならぬ」には通禧も笑っていいか、どうしていいか、わからなかった。
もはや、旧暦二月末の暖かい雨もやって来るようになった。それからの旭茶屋事件には、仏人からの命|乞《ご》いがあり、九人の土州兵を流罪《るざい》ということにして肥後と芸州とに
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