ため、頭を上げて将軍を見る機会がないからであった。のみならず老中はじめ諸大官が威儀正しくそこに居並ぶから、客も周囲の厳《おごそ》かさに自然と気をのまれるからで。
 しかし、当時のオランダ使節が一行の自卑はこの程度にのみとどまらなかった。ずっと以前には使節が将軍のために行なうことは謁見だけで終わりを告げたものであるが、いつのまにか妙な習慣ができて、使節謁見ずみの後、一行はそのまま退出することを許されない。さらに導かれて、大奥の貴婦人たちに異人のさまを見参《げんざん》に入れるという習わしになっていた。そこでケンペルも蘭医として、他の二人《ふたり》の随行員と共に呼び出され、使節のあとについて、さらに御殿の奥深く導かれて行った。そこには数室からなる大広間がある。ある室は十五畳を敷き、ある室は十八量敷きである。その畳にもまたそこへすわる人によって高下の格のさだまりがある。中央の部分には畳がなく、漆をはいた廊下になっていて、そこにオランダ人らがすわれと命ぜられた。将軍と貴婦人たちとは彼らの右手にある簾《す》の後ろにいた。一通りの挨拶《あいさつ》が終わった後、荘厳な御殿はたちまち滑稽《こっけい》の場所と変わった。一行は無数のばからしくくだらない質問の矢面《やおもて》に立たせられた。たとえばヨーロッパにおける最新の長命術は何かの類《たぐい》だ。その時将軍は彼らオランダ人からはるかに隔たって貴婦人らの間にいたが、次第に彼らに近づいて来、できるだけ彼らに接近して、簾《す》の後方に坐《ざ》しながら、侍臣のものに命じて彼らの礼服なるカッパを取り去らせ、起立して全身を見うるようにさせろとあったから、彼らは言われるままにした。さらに歩め、止まれ、お辞儀をして見よ、舞踏せよ、酔漢《えいどれ》の態《さま》をせよ、日本語で話せ、オランダ語で話せ、それから歌えなどの命令だ。彼らはそれに従ったが、舞踏の時にケンペルは舞いにつれて高地ドイツ語で恋歌を歌った。
 実際、オランダ使節の随行員はこれほどの道化役《どうけやく》をつとめたものであった。しかし彼ケンペルはそこに舞踏を演じつつある間にも、江戸城大奥の内部を細かに視察することを忘れなかった。彼は簾の隙間《すきま》を通して二度も将軍の御台所《みだいどころ》を見ることができた。彼女は美しい黒い目をもち、顔の色が鳶色《とびいろ》に見える美人で、その髪の形はひど
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