うことにした。行くえ不明の七名をそれまでには見つけて返すから、軍艦の横浜へ引き返すことだけは見合わせてほしいと依頼した。さて、通禧らは当惑した。どこにいるやもわからないようなものを必ず見つけて返すと言ってのけたからで。
その日の昼過ぎには、通禧は五代、中井らの人たちと共に堺《さかい》の旭《あさひ》茶屋に出張していた。済んだあとで何事もわからない。土佐の藩士らは知らん顔をして見ている。ぜひともその晩のうちに七人の死体を捜し出さねば、米国公使に取りなしを依頼した通禧らの立場もなくなるわけだ。一人|探《さが》し出したものには金三十両ずつやると触れ出したところ、港の漁夫らが集まって来て、松明《たいまつ》をつけるやら、綱をおろすやらして探した。七人の異人の死体が順に一人ずつその暗い海から陸へ上がって来た。いずれも着物なしだ。通禧らは人を呼んで、それぞれ毛布に包ませなぞして、七つの土左衛門《どざえもん》のために間に合わせの新規な服を取り寄せる心配までした。中井|弘蔵《こうぞう》がその棺を持って大坂に帰り着いたころは、やがて一番|鶏《どり》が鳴いた。
風雨の日がやって来た。ウエスト号という軍艦まで死骸《しがい》を持って行くにも、通禧らにはかなりの時を要した。その日は小松帯刀《こまつたてわき》も同行した。このあいにくな雨はどうだ、だれもそれを言わないものはない。しかしその雨を冒してまで届けに行くほどの心持ちを示さなかったら、フランス側でも穏やかに死骸《しがい》を引き取るとは言わなかったであろう。時刻も約束にはおくれた。通禧らは時計の針を正午のところに引き直して行って、ようやく約束を果たし、横浜の方へ引き返すことだけはどうやら先方に思いとどまってもらった。
浪《なみ》も高かった。フランス側ではこの風に危ないと言って、小蒸汽船を卸して通禧らを送りかえしてくれた。ともかくも、死骸はフランス側の手に渡った。しかし、この容易ならぬ事件のあと始末は。それが心配になって、通禧らは帰りの船からもう一度ウエスト号の方を振り返って見た。例の黒船は気味の悪い沈黙を守りながら、雨の川口にかかっていた。
しきりに起こる排外の沙汰《さた》。しかも今度の旭《あさひ》茶屋での件は諸外国との親睦《しんぼく》を約した大坂西本願寺会見の日から見て、実に二日目の出来事だ。危うくもまた測りがたいのは当時の空をお
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