の起こったことが大坂へ知れたのは、異人屋敷ではこの馳走の最中であった。よほどの騒動ということで、仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員が土佐《とさ》の家中のものに襲われたとの報知《しらせ》である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃《そげき》されたとのことであるが、旭茶屋方面から走って来るものの注進もまちまちで、出来事の真相は判然しない。ただ乗組員のうちの四人は即死し、七人は負傷し、別に七人は行くえ不明になったということは確かめられた。なお、行くえ不明の七人が難をのがれようとして水中に飛び込んだものだということもわかって来た。
 翌十六日の朝、とりあえず通禧は米国公使館を訪《たず》ねた。ファルケンボルグにあって、どうしたらよかろうと相談すると、仏国の軍艦はまさに横浜へ引き返そうとするところであるという。どうしてもこれは軍艦を引き留めねばならぬ。その考えから、通禧らは米国公使にしかるべく取りなしを依頼しようとした。
 すると、フランス側からは早速《さっそく》抗議を提出して来た。それは御門《みかど》政府外国事務掛り、東久世少将、伊達伊予守両閣下へとして、次ぎのような手詰めの談判を意味したものであった。
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「……かくのごとき事件は世間まれに見聞いたし候《そうろう》事にて、禽獣《きんじゅう》の所行と申すべし。ついては仏国ミニストル、ひとまず軍艦ウエストの船中へ引き取りおり、なお右行くえ相知れざる人々死生にかかわらず残らず当方へ御差し返し下されたく、明朝第八時まで猶予いたし候間、この段大坂を領せらるる当時の政府へ申し進じ置き候。万一、右のとおり御処置これなきにおいてはいかようの御|詫《わ》び御申し入れなされ候とも、かかる文明国の法則に違《たが》い、のみならずことにこのほど取りきめし条約書および条約の文に違背し、また当今御門政府の周囲にありて重役を勤めおる大名の家来にかくのごときの処置行なわれ候ては、これに対し相当と相心得候処置に及び候事にこれあるべく候間、この段申し進じ置き候。謹言。」
  千八百六十八年二月、大坂において
[#地から11字上げ]日本在留
[#地から2字上げ]仏国全権レオン・ロセス
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 ともかくも、五代、岩下らの働きから、十七日の朝八時とは言わないで、正午まで待ってもら
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