の亡《な》き舅《しゅうと》、吉左衛門なぞが他の宿役人を誘い合わせ、いずれも定紋付きの麻の※[#「ころもへん+上」、第4水準2−88−9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2−88−10]《かみしも》を着用して、一通行あるごとに宿境《しゅくざかい》まで目上の人たちを迎えたり送ったりしたころの木曾路ではもとよりない。古い駅路の光景も変わった。あの諸大名が多数の従者を引きつれ、お抱《かか》えの医者までしたがえて、挾箱《はさみばこ》、日傘《ひがさ》、鉄砲、箪笥《たんす》、長持《ながもち》、その他の諸道具の行列で宿場宿場を埋《うず》めたような時は、もはや後方《うしろ》になった。まだそれでも明治二年のころあたりまでは、ぽつぽつ上京する大名や公卿《くげ》の通行を見、二十人から八十人までの縮小した供数でこの街道を通り過ぎて行ったが、それすら跡を絶つようになった。
「さあ。早くおいで。」
 とお民はあとから山の中の街道を踏んで来るお徳を促した。そして、彼女が兄の口ぶりを借りて言えば、「土屋総蔵時代とは、まるで善悪の対照を見せつけられる」筑摩県の官吏を相手にして、尾州藩の手を離れてからこのかた、今や木曾山を失おうとする地方《じかた》の人民のために争えるだけ争おうとしているような夫半蔵の方へ帰って行った。
 諸方の城郭も、今は無用の長物として崩《くず》されるまっ最中だ。上松《あげまつ》宿の原畑役所なぞが取り払われたのは、早くも明治元年のことである。それは尾州藩で建てた上松の陣屋とも、または木曾御材木役所とも呼び来たったところである。お民が人のうわさによく聞いた木曾福島の関所の建物、彼女の夫がよく足を運んだ山村氏の代官屋敷――すべてないものだ。二百何十年来この木曾地方を支配するようにそびえ立っていたあの三|棟《むね》の高い鱗茸《こけらぶ》きの代官屋敷から、広間、書院、錠口《じょうぐち》より奥向き、三階の楼、同心園という表居間《おもていま》、その他、木曾川に臨む大小三、四十の武家屋敷はことごとく跡形もなく取り払われた。
 どれほどの深さに達するとも知れないような、この大きな破壊のあとには何が来るか。世にはいろいろと言う人がある。徳川十五代将軍が大政奉還を聞いた時に、よりよい古代の復帰を信じて疑わなかったような平田門人としても、彼女の夫たちはなんらかの形でこれに答えねばならなかった。




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