し、万国共通の太陽暦に改めたころは、やがて明治六年の四月を迎えた。その時になると、馬籠《まごめ》本陣の吉左衛門なぞがもはやこの世にいないばかりでなく、同時代の旧友であれほどの頑健《がんけん》を誇っていた金兵衛まで七十四歳で亡《な》き人の数に入ったが、あの人たちに見せたらおそらく驚くであろうほどの木曾路《きそじ》の変わり方である。今は四民が平等と見なされ、権威の高いものに対して土下座《どげざ》する旧習も破られ、平民たりとも乗馬、苗字《みょうじ》までを差し許される世の中になって来た。みんな鼻息は荒い。中馬稼《ちゅうまかせ》ぎのものなぞはことにそれが荒く、牛馬の口にばかりついていない。どうかすると荷をつけて街道に続く牛馬の群れは通行をさまたげ、諸人の迷惑にすらなる。なんと言っても当時の街道筋はまだやかましい昔の気風を存していたから、馬士《まご》や牛追いの中には啣《くわ》え煙管《ぎせる》なぞで宿村内を歩行する手合いもあると言って、心得違いのものは取りただすよしの触れ書が回って来たほどだ。下から持ち上げる力の制《おさ》えがたさは、こんな些細《ささい》なことにもよくあらわれていた。これまで、実に非人として扱われていたものまで、大手を振って歩かれる時節が到来した。新たに平民と呼ばれて雀躍《こおどり》するものもある。その仲間入りがまことに許されるなら、貸した金ぐらいは棒引きにすると言って、涙を流してよろこぶものがある。洪水《こうずい》のようにあふれて来たこの勢いを今は何者もはばみ止めることができない。武家の時が過ぎて、一切の封建的なものが総崩《そうくず》れに崩れて行くような時がそれにかわって来た。


 本陣、脇《わき》本陣、今は共にない。大前《おおまえ》、小前《こまえ》なぞの家筋による区別も、もうない。役筋《やくすじ》ととなえて村役人を勤める習慣も廃された。庄屋《しょうや》、名主《なぬし》、年寄《としより》、組頭《くみがしら》、すべて廃止となった。享保《きょうほう》以来、宿村の庄屋一人につき玄米五石をあてがわれたが、それも前年度(明治五年)までで打ち切りとした。庄屋名主らは戸長、副戸長と改称され、土地人民に関することはすべてその取り扱いに変わり、輸送に関することは陸運会社の取り扱いに変わった。人馬の継立《つぎた》て、継立てで、多年|助郷《すけごう》村民を苦しめた労役の問題も、その
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