「そりゃ、君、尾州家で版籍を奉還する思いをしたら、われわれの家で問屋や会所を返上するぐらいは実に小さな事でさ。」
「さあ、ねえ。」
「どうでしょう。どうせ壊《こわ》れるものなら、思い切って壊して見たら。」
「半蔵さんは平田門人だから、そういう意見も出る。」
「でも、そこまで行かなかったら、御一新の成就《じょうじゅ》も望めなかありませんか。」
「君の言うように、思い切って壊して見る日にゃ、自分でも本陣や問屋と一緒に倒れて行くつもりでなくちゃ……こういう時になると、宗教のある人は違う。まあ、新政府のやり口をもっとよく見た上でないとね。一切はまだわたしには疑問です。」
 その時、松雲和尚をはじめ、旧年寄役の人たちなぞが来て席に着き始めるので、二人はもうそんな話をしなかった。そこには奥の間、仲の間、次の間の唐紙《からかみ》をはずし、三室を通して客の席をつくってある。二里も三里もあるところから峠越しでその日の葬式に列《つら》なりに来て、万福寺や伏見屋に泊まっている隣の国の客もあったが、そういう人たちも提灯《ちょうちん》持参で招かれて来た。日ごろ出入りの大工も来、畳屋も来た。髪結いの直次も年をとったが、最後まで吉左衛門の髭《ひげ》を剃《そ》りに油じみた台箱をさげて通《かよ》ったのも直次で、これも羽織着用の改まった顔つきでやって来た。
 松雲和尚の前に栄吉、得右衛門の前に清助、美濃から来た客の前には勝重までが取り持ちに出て、まず酒を勧めた。
「そうだ、今夜は皆の盃《さかずき》を受けて回ろう。おれも飲もう。」
 半蔵はその気になって、伊之助と寿平次とが隣り合っている膳《ぜん》の前に行ってすわった。
「よくこんなにおしたくができましたね。」
 と言って、伊之助も盃を重ねている。こうした一座の客として来ていても、静かに膳の上をながめ、膳に映る小盃の影を見つけて、それをよく見ているような人は伊之助だ。その時、半蔵が酒を勧めながら言った。
「まあ、時節がら、質素にとも思いましたがね、今夜だけは阿爺《おやじ》の生きてる日と同じようにしたい。わたしもそのつもりで、蕎麦《そば》で一杯あげることにしましたよ。」
 半蔵は伊之助から受けた盃を寿平次の方へもさした。
「寿平次さん、この酒は伏見屋の酒ですよ。今夜は君もゆっくり飲んでください。」
 そこここの百目蝋燭《ひゃくめろうそく》の灯《ほ》かげに
前へ 次へ
全210ページ中193ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング