来た。旧会所の建物は本陣表門のならびに続いて、石垣《いしがき》の多い坂道の位置から伏見屋のすぐ下隣りに見える。さびしく戸のしまったその建物の前を立ち去りがたいようにして、杖《つえ》をつきながら往《い》ったり来たりしている人がある。その人が彼の父だ。大病以来めったに隠居所を離れたこともない吉左衛門だ。半蔵は自分の家の方へ降りかけたところまで行って、思わずハッとした。
「お父《とっ》さん、どちらへ。」
声をかけて見て、半蔵は父がめずらしく旧友金兵衛を訪《たず》ねに行って来たことを知った。その父が家の門前までひとりでぽつぽつ帰って来たところだということをも知った。
「お父さん、大丈夫ですか。そんなにひとりで出歩いて。」
と彼は言って、裏の隠居所まで父を送らせるために自分の子供をさがしたが、そこいらには宗太も遊んでいなかった。彼は自身に父を助けるようにして、ゆっくりゆっくり足を運んで行く吉左衛門に付き添いながら、裏二階の前まで一緒に歩いた。
今は半蔵も問屋役から離れてしまったことを父に隠せなかった。新しい伝馬所は父の目にも触れた。継母や妻の心配して来たことを、いつまで父に告げないのはうそだ。その考えから、彼は母屋《もや》の方へ引き返して行った。
「お民、帰ったよ。」
その半蔵の声をきくと、お民は前の晩に菖蒲《しょうぶ》の湯をつくらせておそくまで夫を待ったことなぞを語った。そういう彼女は、やがてまた夫との間に生まれて来るものを待ち受けているような時である。彼女はすでに五人の子の母であった。もっとも、五人のうち、男の子の方は長男の宗太に、妻籠の里方へ養子にやった次男の正己《まさみ》。残る三人は女の子で、姉娘のお粂のほかには、さきに次女のお夏をうしない、三女に生まれたお毬《まり》という子もあったが、これも早世した。どうかして今度生まれて来るものは無事に育てたい。そんな話が夫と二人ぎりの時には彼女の口からもれて来る。彼女の内部《なか》に起こって来た変化はすでに包み切れないほどで、いろいろと女らしく心をつかっていた。
夕方から、半蔵は父を見に行った。例の裏二階に、吉左衛門はおまんを相手の時を送っていた。部屋《へや》の片すみには父がからだを休めるための床も延べてある。これまで父の耳にも入れずにあったことは、半蔵がそれを切り出すまでもなく、吉左衛門は上の伏見屋の金兵衛からい
前へ
次へ
全210ページ中182ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング