宇治の今北山《いまきたやま》に眠る故人だ。伊勢での寛斎老人は林崎文庫《はやしざきぶんこ》の学頭として和漢の学を講義し、かたわら医業を勤め、さみしい晩年の日を送ったという。半蔵は旅先ながらに土地の人たちの依頼を断わりかね、旧師のために略歴をしるした碑文までもえらんで置いて、「慶応|戊辰《ぼしん》の初夏、来たりてその墓を拝す」と書き残して来た。そんな話を持って、先輩|暮田正香《くれたまさか》から、友人の香蔵や景蔵まで集まっている京都の方へ訪《たず》ねて行って見ると、そこでもまた雨だ。定めない日和《ひより》が続いた。かねて京都を見うる日もあらばと、夢にも忘れなかったあの古い都の地を踏み、中津川から出ている友人らの仮寓《かぐう》にたどり着いて、そこに草鞋《わらじ》の紐《ひも》をといた時。うわさのあった復興最中の都会の空気の中に身を置いて見て、案内顔な香蔵や景蔵と共に連れだちながら、平田家のある錦小路《にしきこうじ》まで歩いた時。平田|鉄胤《かねたね》老先生、その子息《むすこ》さんの延胤《のぶたね》、いずれも無事で彼をよろこび迎えてくれたばかりでなく、宿へ戻《もど》って気の置けないものばかりになると、先師|篤胤《あつたね》没後以来の話に花の咲いた時。そこへ暮田正香でも顔を見せると、先輩は伊那《いな》の長い流浪《るろう》時代よりもずっと若返って見えるほどの元気さで、この王政の復古は同時に一切の中世的なものを否定することであらねばならない、それには過去数百年にわたる武家と僧侶《そうりょ》との二つの大きな勢力をくつがえすことであらねばならないと言って、宗教改革の必要にまで話を持って行かなければあの正香が承知しなかった時。そういう再会のよろこびの中でも、彼が旅の耳に聞きつけるものは、降り続く長雨の音であった。
 京都を立って帰路につくころから、ようやく彼は六月らしい日のめを見たが、今度は諸方に出水《でみず》のうわさだ。淀川《よどがわ》筋では難場《なんば》が多く、水損《みずそん》じの個処さえ少なくないと言い、東海道辺では天龍川《てんりゅうがわ》の堤が切れて、浜松あたりの町家は七十軒も押し流されたとのうわさもある。彼が江州《ごうしゅう》の草津辺を帰るころは、そこにも満水の湖を見て来た。
 郷里の方もどうあろう。その懸念《けねん》が先に立って、過ぐる慶応三年は白粥《しらかゆ》までたいて村民
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