った。京からの下りも加納の宿あたりまでは登り坂の多いところで、半蔵らがそんな話を耳にしたのは美濃路《みのじ》にはいってからであるが、その道を帰って来るころは、うわさのある中津川辺へはまだかなりの距離があり、真偽のほどすら判然とはしなかった。
 鵜沼《うぬま》まで帰って来て見た。新政府の趣意もまだよく民間に徹しないかして、だれが言い触らすとも知れないような種々《さまざま》な流言は街道に伝わって来る時である。どうして、あの例幣使なぞが横行したり武家衆がいばったりして人民を苦しめぬいた旧時代にすら、ついぞ百姓|一揆《いっき》のあったといううわさを聞いたこともない尾州領内で、しかも世の中建て直しのまっ最中に、日ごろ半蔵の頼みにする百姓らが中津川辺を騒がしたとは、彼には信じられもしなかった。まして、彼の世話する馬籠あたりのものまでが、その一揆の中へ巻き込まれて行ったなぞとは、なおなお信じられもしなかった。


 しかし、郷里の方へ近づいて行けば行くほど、いろいろと半蔵には心にかかって来た。道中して見てもわかるように、地方の動揺もはなはだしい時だ。たとえば、馬の背や人足の力をかりて旅の助けとするとしても、従来の習慣《ならわし》によれば本馬《ほんま》三十六貫目、乗掛下《のりかけした》十貫目より十八貫目、軽尻《からじり》あふ付三貫目より八貫目、人足荷五貫目である。これは当時道中するもののだれもが心得ねばならない荷物貫目の掟《おきて》である。本|駄賃《だちん》とはこの本馬(駄荷)に支払うべき賃銭のことで、それを二つ合わせて三つに割ればすなわち軽尻駄賃となる。言って見れば、本駄賃百文の時、二つ合わせれば二百文で、それを三つに割ったものが軽尻駄賃の六十四文となる。人足はまた、この本駄賃の半分にあたる。これらの駄賃が支払われる場合に、今までどおりの貨幣でなくてそれにかわる金札で渡されたとしても、もし一両の札が実際は二分にしか通用しないとしたら。
 その年、慶応四年は、閏《うるう》四月あたりから不順な時候が続き、五月にはいってからもしきりに雨が来た。この旅の間、半蔵は名古屋から伊勢路《いせじ》へかけてほとんど毎日のように降られ続け、わずかに旧師寛斎の墓前にぬかずいた日のみよい天気を迎えたぐらいのものであった。別号を春秋花園とも言い、国学というものに初めて半蔵の目をあけてくれたあの旧師も、今は
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