な村民を相手に、ただただ彼は心配をわかつのほかなかった。
 でも、そのころになると、この宿場を通り過ぎて行った東山道軍の消息ばかりでなく、長州、薩州、紀州、藤堂《とうどう》、備前《びぜん》、土佐諸藩と共に東海道軍に参加した尾州藩の動きを知ることはできたのである。尾州の御隠居父子を木曾の大領主と仰ぐ半蔵らにとっては、同藩の動きはことに凝視の的《まと》であった。偶然にも、彼は尾州藩の磅※[#「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1−89−18]隊《ほうはくたい》その他と共に江戸まで行ったという従軍医が覚え書きの写しを手に入れた。名古屋の医者の手になった見聞録ともいうべきものだ。
 とりあえず、彼はその覚え書きにざっと目を通し、筆者の付属する一行が大総督の宮の御守衛として名古屋をたったのは二月の二十六日であったことから、先発の藩隊長|富永孫太夫《とみながまごだゆう》をはじめ総軍勢およそ七百八十余人の尾州兵と駿府《すんぷ》で一緒になったことなぞを知った。さらに、彼はむさぼるように繰り返し読んで見た。
 その中に、徳川玄同《とくがわげんどう》の名が出て来た。玄同が慶喜を救おうとして駿府へと急いだ記事が出て来た。「玄同さま」と言えば、半蔵父子にも親しみのある以前の尾州公の名である。御隠居と意見の合わないところから、越前《えちぜん》公の肝煎《きもい》りで、当時|一橋家《ひとつばしけ》を嗣《つ》いでいる人である。ずっと以前にこの旧藩主が生麦《なまむぎ》償金事件の報告を携えて、江戸から木曾路を通行されたおりのことは、まだ半蔵の記憶に新しい。あのおりに、二千人からの人足が尾張領分の村々から旧藩主を迎えに来て、馬籠の宿場にあふれた往時のことも忘れられずにある。尾州藩ではこの人を起こし、二名の藩の重職まで同行させ、慶喜の心事が誤り伝えられていることを訴えて、大総督の宮を深く動かすところがあったと書いてある。
 その中にはまた、容易ならぬ記事も出て来た。小田原《おだわら》から神奈川《かながわ》の宿まで動いた時の東海道軍の前には、横浜居留民を保護するために各国連合で組織した警備兵があらわれたとある。外人はいろいろな難題を申し出た。これまで徳川氏とは和親を結んだ国の事ゆえ、罪あって征討するなら、まず各国へその理由を告げてしかるべきに、さらに何の沙汰《さた》もない。かつ、交易場の辺を兵隊が通行して
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