多年慶喜を排斥しようとする旧《ふる》い幕臣の中からも起こり、かくのごとき未曾有《みぞう》の大変革はけだし天子を尊ぶの誠意から出たのではなくて全く薩摩《さつま》と長州との決議から出た事であろうと推測する輩《やから》の中からも起こり、逆賊の名を負わせられながらなんらの抵抗をも示すことなしに過去三百年の都会の誇りをむざむざ西の野蛮人らにふみにじられるとはいかにも残念千万であるとする諸陪臣の中からも起こった。
「神祖(東照宮)に対しても何の面目がある。」――その声はどんな形をとって、どこに飛び出すかもしれなかった。江戸の空は薄暗く、重い空気は八十三里の余もへだたった馬籠あたりの街道筋にまでおおいかぶさって来た。
 諸大名の家中衆で江戸表にあったものの中には、早くも屋敷を引き揚げはじめたとの報もある。江戸城明け渡しの大詰めも近づきつつあったのだ。開城準備の交渉も進められているという時だ。それらの家中衆の前には、およそ四つの道があったと言わるる。脱走の道、帰農商の道、移住の道、それから王臣となるの道がそれだ。周囲の事情は今までどおりのような江戸の屋敷住居《やしきずまい》を許さなくなったのだ。
 将軍家直属の家の子、郎党となると、さらにはなはだしい。それらの旗本方は、いずれも家政を改革し、費用を省略して、生活の道を立てる必要に迫られて来た。連年海陸軍の兵備を充実するために莫大《ばくだい》な入り用をかけて来た旧幕府では、彼らが知行《ちぎょう》の半高を前年中借り上げるほどの苦境にあったからで。彼ら旗本方はほとんどその俸禄《ほうろく》にも離れてしまった。慶喜が彼らに示した書面の中には、実に今日に至ったというのも皆自分一身の過《あやま》ちより起こったことである。自分は深く恥じ深く悲しむ、ついては生計のために暇《いとま》を乞いたい者は自分においてそれをするには忍びないけれども、その志すところに任せるであろう、との意味のことが諭《さと》してあったともいう。
 もはや、江戸屋敷方の避難者は在国をさして、追い追いと東海道方面にも入り込むとのうわさがある。この薄暗い街道の空気の中で、どんなにか昔気質《むかしかたぎ》の父も心を傷《いた》めているだろう。そのことが半蔵をハラハラさせた。幾たびか彼に家出を思いとまらせ、庄屋のつとめを耐《こら》えさせ、友人の景蔵や香蔵のあとを追わせないで、百姓相手に地方《
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