帰って行って見たまえ。よいものが君を待っていますから。あれは伊那の縫助さんの届けものです。あの人はわたしの家へも寄ってくれて、いろいろな京都の土産話《みやげばなし》を置いて行きました。」


 二日過ぎに、香蔵は伊那回りで馬籠まで引き返して来た。諏訪帰り十三人の美濃衆と同じように、陣笠《じんがさ》割羽織に立附《たっつけ》を着用し、帯刀までして、まだ総督を案内したままの服装《いでたち》も解かずにいる親しい友人を家に迎え入れることは、なんとはなしに半蔵をほほえませた。
「ようやく。ようやく。」
 その香蔵の声を聞いただけで、半蔵には美濃の大垣から信州下諏訪までの間の奔走を続けて来た友人の骨折りを察するに充分だった。
 何よりもまず半蔵は友人を店座敷の方へ通して、ものものしい立附《たっつけ》の紐《ひも》を解かせ、腰のものをとらせた。彼はお民と相談して、香蔵を家に引きとめることにした。くたびれて来た人のために、風呂《ふろ》の用意なぞもさせることにした。場合が場合でも、香蔵には気が置けない。そこで、お民までが夫の顔をながめながら、
「香蔵さんもあの服装《なり》じゃ窮屈でしょう。お風呂からお上がりになったら、あなたの着物でも出してあげましょうか。」
 こんな女らしい心づかいも半蔵をよろこばせた。
 香蔵は黒く日に焼けて来て、顔の色までめっきり丈夫そうに見える人だ。夕方から、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、お民にすすめられた着物の袖《そで》に手を通し、拝借という顔つきで半蔵の部屋に来てくつろいだ。
「相良惣三もえらいことになりましたよ。」
 と香蔵の方から言い出す。半蔵はそれを受けて、
「その話は景蔵さんからも聞きました。」
「われわれ一同で命乞いはして見たが、だめでしたね。あの伏見鳥羽《ふしみとば》の戦争が起こる前にさ、相良惣三の仲間が江戸の方であばれて来たことは、半蔵さんもそうくわしくは知りますまい。今度わたしは総督の執事なぞと一緒になって見て、はじめていろいろなことがわかりました。あの仲間には三つの内規があったと言います。幕府を佐《たす》けるもの。浪士を妨害するもの。唐物《とうぶつ》(洋品)の商法《あきない》をするもの。この三つの者は勤王攘夷の敵と認めて誅戮《ちゅうりく》を加える。ただし、私欲でもって人民の財産を強奪することは許さない。そういう内規があって、浪士数名
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