炉裏ばたに続いた広い台所では、十三人前からの膳《ぜん》の用意がはじまっていた。にわかな客とあって、有り合わせのものでしか、もてなせない。切《き》り烏賊《いか》、椎茸《しいたけ》、牛蒡《ごぼう》、凍り豆腐ぐらいを|煮〆《にしめ》にしてお平《ひら》に盛るぐらいのもの。別に山独活《やまうど》のぬた。それに山家らしい干瓢《かんぴょう》の味噌汁《みそしる》。冬季から貯《たくわ》えた畠《はたけ》の物もすでに尽き、そうかと言って新しい野菜はまだ膳に上らない時だ。
「きょうのお客さまは、みんな平田先生の御門人ばかり。」
 とお粂《くめ》までが肩をすぼめて、それを母親のところへささやきに来る。この娘ももはや、皿小鉢《さらこばち》をふいたり、割箸《わりばし》をそろえたりして、家事の手伝いするほどに成人した。そこにはおまんも裏の隠居所の方から手伝いに来ていた。おまんは、場合が場合だから、たとい客の頼みがないまでも、わざとしるしばかりに一献《いっこん》の粗酒ぐらいを出すがよかろうと言い出した。それには古式にしてもてなしたら、本陣らしくもあり、半蔵もよろこぶであろうともつけたした。彼女は家にある土器《かわらけ》なぞを三宝《さんぽう》に載せ、孫娘のお粂には瓶子《へいじ》を運ばせて、挨拶《あいさつ》かたがた奥座敷の方へ行った。
「皆さんがお骨折りで、御苦労さまでした。」
 と言いながら、おまんは美濃衆の前へ挨拶に行き、中津川の有志者の一人《ひとり》として知られた小野三郎兵衛の前へも行った。その隣に並んで、景蔵が席の末に着いている。その人の前にも彼女は土器《かわらけ》を白木の三宝のまま置いて、それから冷酒を勧めた。
「あなたも一つお受けください。」
「お母《っか》さん、これは恐れ入りましたねえ。」
 景蔵はこころよくその冷酒を飲みほした。そこへ半蔵も進み寄って、
「でも、景蔵さん、福島での御通行があんなにすらすら行くとは思いませんでしたよ。」
「とにかく、けが人も出さずにね。」
「あの相良惣三《さがらそうぞう》の事件で、われわれを呼びつけた時なぞは、えらい権幕《けんまく》でしたなあ。」
「これも大勢《たいせい》でしょう。福島の本陣へは山村家の人が来ましてね、恭順を誓うという意味の請書《うけしょ》を差し出しました。」
「吾家《うち》の阿爺《おやじ》なぞも非常に心配していましたよ。この話を聞いたら、さ
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