それこそ早計と言わねばならない。ペリイの取った航路は合衆国の東海岸からマデイラ、喜望峰を迂回《うかい》して、モオリシアス、セイロン、シンガポオルを経、それからシナの海を進んで来たものと言われるが、遠くアナポリスから極東への船旅に上る前に、彼にはすでに長いしたくがあったという。彼は日本に関するあらゆる書籍をあさり、名高いシイボルトが大きな著述を読み、その他必要な書籍の購求をアメリカ政府に請い、オランダ人の造った海図を手に入れるためには政府をして三万ドルの大金をなげうたせたというくらいだ。日本はアメリカを去ることも遠く、しかも文学上には未知の国であったにもかかわらず、東方アジアの国民の中で、日本のようにその関係書類の欧州書庫中に蔵せられたものはなかったとも言わるる。ただ、彼が知ろうとして知り得なかったのは、日本最近の政治上の位置と、天皇と大君(将軍のこと)との真の関係であったとか。
 このペリイが前発の二|艘《そう》の石炭船を喜望峰とモオリシアスとに送らせるほどの用意をしたあとで、四隻の軍艦を率いて遠航の途に上ったのだ。当時、アメリカの科学者およびその他の学者の間にはこの遠洋航隊に代表者を出したいと言って、ペリイに逼《せま》ったというだけでも、いかに空前の企てであったかがわかる。ペリイはこの国へ来て堅い鎖国の扉《とびら》をたたく前にすでに琉球近海や日本海岸のおおよその知識をもっていた。さてこそ、この国の厳禁を無視しまっしぐらに江戸湾を望んで直進して来たわけだ。ペリイが日本の本土に到着する前、琉球島を訪《たず》ねてその王と幕僚とに会見し、さらに小笠原《おがさわら》群島を訪ねて、牛、羊、種子、その他の日用品、およびアメリカの国旗をそこに定住する白人の移民のもとに残して置いたというのを見ても、彼の抱負の小さくなかったことがわかる。彼が浦賀《うらが》の久里《くり》が浜《はま》に到着したころは、ちょうどヨーロッパ勢力の東方に進出する十九世紀のなかばに当たる。早く棉花《めんか》をシナの市場に売り込んで東洋貿易の重んずべきことを知ったアメリカは、イギリスのあとを追ってシナとの通商条約を結び、さらにその方針を一層拡張して、日本にも朝鮮半島にも及ぼそうとしていたころである。ペリイはこの使命を果たすために堅き決心をかため、弘化《こうか》年度に江戸湾に来て開港の要求を拒絶されたビッドル提督の
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