って、実地を踏んで来た縫助の話には正香の住む京都|衣《ころも》の棚《たな》のあたりや、染物屋伊勢久の暖簾《のれん》のかかった町のあたりを彷彿《ほうふつ》させるものがあった。縫助は、「一つこの復興の京都を見て行ってくれ」と正香に言われたことを半蔵に語り、この国の歴史あって以来の未曾有《みぞう》の珍事とも言うべき外国公使の参内《さんだい》を正香と共に丸太町通りの町角《まちかど》で目撃したことを語った。三国公使のうち、彼は相国寺《しょうこくじ》から参内する仏国公使ロセスを見ることはかなわなかったが、南禅寺を出たオランダ代理公使ブロックと、その書記官の両人が黒羅紗《くろらしゃ》の日覆《ひおお》いのかかった駕籠《かご》に乗って、群集の中を通り過ぎて行くのを見ることができたという。まだ西洋人というものを見たことのない彼が、初めて自己の狭い見聞を破られた時は、夢のような気がしたとか。
縫助はなお、言葉を継いで、彼と正香とが周囲に群がる人たちと共に、智恩院《ちおんいん》を出る英国公使パアクスを待ったことを語った。これは参内の途中、二人《ふたり》の攘夷家《じょういか》のあらわれた出来事のために沙汰止《さたや》みとなった。彼が暇乞《いとまご》いのために師鉄胤の住む錦小路《にしきこうじ》に立ち寄り、正香らにも別れを告げて、京都を出立して来るころは、町々は再度の英国公使参内のうわさで持ちきっていた。沿道の警戒は一層厳重をきわめ、薩州、長州、芸州、紀州の諸藩からは三十人ずつほどの人数を出してその事に当たり、当日の往来筋は諸人通行留めで、左右横道の木戸も締め切るという評判であった。もはや、周囲の事情はこの国の孤立を許さない。上御一人《かみごいちにん》ですら進んで外国交際の道を開き、万事条約をもって世界の人を相手としなければならない、今後みだりに外国人を殺害したり、あるいは不心得の所業に及んだりするものは、朝命に悖《もと》り、国難を醸《かも》すのみならず、この国の威信にもかかわる不届き至極《しごく》の儀と言われるようになった。その罪を犯すものは士分の者たりとも至当の刑に処せられるほどの世の中に変わって来た。京都を中心にして、国是を攘夷に置いた当時を追想すると、実に隔世の感があったともいう。
「しかし、半蔵さん、今度わたしは京都の方へ行って見て、猫《ねこ》も杓子《しゃくし》も万国公法を振り回すに
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