たちなぞのおもちゃにするものじゃない。」
 としかった。
 獄門の場処は、町はずれの石屋の坂の下と定められた。そこは木曾十一宿の西の入り口とも言うべきところに当たる。本陣の竹藪からは一本の青竹が切り出され、その鋭くとがった先に侍の首級が懸《か》けられた。そのそばには規律の正しさ、厳《おごそ》かさを示すために、東山道軍として制札も立てられた。そこには見物するものが集まって来て、うわさはとりどりだ。これは尾州藩から掛け合いになったために、因州軍でも捨てて置かれなかったのだと言うものがある。当月二十六日の夜に、宿内の大野屋勘兵衛方に止宿して、酒宴の上であばれて行ったのも、おおかたこの侍であろうと言って見るものもある。やがて因州の家中も引き揚げて行き、街道の空には夜鷹《よたか》も飛び出すころになると、石屋の坂のあたりは人通りも絶えた。
「どうも、番太のむすめに戯れたぐらいで、打ち首とは、おれもたまげたよ。」
「山の中へでも無理に女を連れ込んだものかなあ。」
「このことは尾州藩からやかましく言い出したげな。領地内に起こった出来事だで。それに、名古屋の御重職も一人、総督のお供をしているで。なにしろ、七藩からの寄り合いだもの。このくらいのことをやらなけりゃ、軍規が保てんと見えるわい。」
 だれが問い、だれが答えるともなく、半蔵の周囲にはそんな声も起こる。
 こうした光景を早く村民から隠したいと考えるのも半蔵である。彼は周囲を見回した。村には万福寺もある。そこの境内には無縁の者を葬るべき墓地もある。早くもとの首桶に納めたい、寺の住持|松雲和尚《しょううんおしょう》に立ち会ってもらってあの侍の首級を埋《うず》めてしまいたい、その考えから彼は獄門三日目の晩の来るのを待ちかねた。彼はまた、こうした極刑が新政府の意気込みをあらわすということに役立つよりも、むしろ目に見えない恐怖をまき散らすのを恐れた。庄屋としての彼は街道に伝わって来る種々《さまざま》な流言からも村民を護《まも》らねばならなかった。

       三

 三月にはいって、めずらしい春の大雪は街道を埋《うず》めた。それがすっかり溶けて行ったころ、かねて上京中であった同門の人、伊那《いな》南条村の館松縫助《たてまつぬいすけ》が美濃路《みのじ》を経て西の旅から帰って来た。
 縫助は、先師|篤胤《あつたね》の稿本全部を江戸から伊那
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