な》を出せのと言われ、中にはひどく乱暴を働いた侍衆もあったというような話が残っていた。ある伝馬役《てんまやく》の門口にも立って見た。街道に添う石垣の片すみによせて、大きな盥《たらい》が持ち出してある。馬の行水《ぎょうずい》もはじまっている。馬の片足ずつを持ち上げさせるたびに、「どうよ、どうよ。」と言う馬方の声も起こる。湯水に浸された荒藁《あらわら》の束で洗われるたびに、馬の背中からにじみ出る汗は半蔵の見ている前で白い泡《あわ》のように流れ落ちた。そこにはまた、妻籠《つまご》、三留野《みどの》の両宿の間の街道に、途中で行き倒れになった人足の死体も発見されたというような、そんなうわさも伝わっていた。


 半蔵が中津川まで迎えに行って謁見《えっけん》を許された東山道総督岩倉少将は、ようやく十六、七歳ばかりのうらわかさである。御通行の際は、白地の錦《にしき》の装束《しょうぞく》に烏帽子《えぼし》の姿で、軍旅のいでたちをした面々に前後を護《まも》られながら、父岩倉公の名代を辱《はず》かしめまいとするかのように、勇ましく馬上で通り過ぎて行った。副総督の八千丸《やちまる》も兄の公子に負けてはいないというふうで、赤地の錦の装束に太刀《たち》を帯び、馬にまたがって行ったが、これは初陣《ういじん》というところを通り越して、いじらしいくらいであった。この総督御本陣直属の人数は二百六人、それに用物人足五十四人、家来向き諸荷物人足五十二人、赤陣羽織《あかじんばおり》を着た十六人のものが赤地に菊の御紋のついた錦の御旗と、同じ白旗とをささげて来た。空色に笹龍胆《ささりんどう》の紋じるしをあらわした総督家の旗もそのあとに続いた。そればかりではない、井桁《いげた》の紋じるしを黒くあらわしたは彦根《ひこね》勢、白と黒とを半分ずつ染め分けにしたは青山勢、その他、あの同勢が押し立てて来た馬印から、「八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》」と大書した吹き流しまで――数えて来ると、それらの旗や吹き流しのはたはたと風に鳴る音が馬のいななきにまじって、どれほど軍容をさかんにしたかしれない。東山道軍の一行が活気に満ちていたことは、あの重い大砲を車に載せ、兵士の乗った馬に前を引かせ、二人《ふたり》ずつの押し手にそのあとを押させ、美濃と信濃《しなの》の国境《くにざかい》にあたる十曲峠《じっきょくとうげ》の険しい坂道を引き上
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