有志の中には、進んで従軍を願い出るものも少なくない。
「おれもこうしちゃいられないような気がする。」
半蔵がそれを言って見せると、お民は夫の顔をながめながら、
「ですから、お母《っか》さんが心配してるんですよ。」
「お民、おれは出られそうもないぞ。そのことはお母《っか》さんに話してくれてもいい。おれがお供をするとしたら、どうしたって福島の山村様の方へ願って出なけりゃならない。中津川の友だちとおれとは違うからね。あの幕府びいきの御家中がおれのようなものを許すと思われない。」
「……」
「ごらんな、景蔵さんや香蔵さんは、ただ岩倉様のお供をするんじゃないよ。軍の嚮導《きょうどう》という役目を命ぜられて行くんだよ。その下には十四、五人もついて御案内するという話だが、それがお前、みんな平田の御門人さ。何にしてもうらやましい。」
夫婦の間にはこんな話も出た。
その時になって初めて本陣も重要なものになった。東山道総督執事からの布告にもあるように、徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たものは遠慮なくその事情を届けいでよと指定された場所は、本陣である。諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べよと命ぜられた貧民に関する報告や願書の集まって来るのも、本陣である。のみならず、従来本陣と言えば、公用兼軍用の旅舎のごときもので、諸大名、公卿《くげ》、公役、または武士のみが宿泊し、休息する場所として役立つぐらいに過ぎなかった。今度の布告で見ると、諸藩の藩主または重職らが勤王を盟《ちか》い帰順の意を総督にいたすべき場所として指定された場所も、また本陣である。
半蔵の手もとには、東山道軍本営の執事よりとして、大垣より下諏訪《しもすわ》までの、宿々問屋役人中へあてた布達がすでに届いていた。それによると、薩州勢四百七十二人、大垣勢千八百二十七人、この二藩の兵が先鋒《せんぽう》として出発し、因州勢八百人余は中軍より一宿先、八百八十六人の土州勢と三百人余の長州勢とは前後交番で中軍と同日に出発、それに御本陣二百人、彦根《ひこね》勢七百五十人余、高須《たかす》勢百人とある。この人数が通行するから、休泊はもちろん、人馬|継立《つぎた》て等、不都合のないように取り計らえとある。しかし、この兵数の報告はかなり不正確なもので、実際に大垣から進んで来る東山道軍はこれほどあ
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