ような公使らの顔をその窓のところに見ることはできた。駕籠の造りは蓙打《ござう》ちの腰黒《こしぐろ》で、そんな乗り物を異国の使臣のために提供したところにも、旧《ふる》い格式などを破って出ようとする新政府の意気込みがあらわれている。初めて正香らの目に映る西洋人は、なかなかに侮りがたい人たちで、ことに代理公使の方は、犯しがたい威風をさえそなえた容貌《ようぼう》の人であった。髪の毛色を異にし、眸《ひとみ》の色を異にし、皮膚の色を異にし、その他風俗から言葉までを異にするような、このめずらしい異国の人たちは、これがうわさに聞いて来た京都かという顔つきで、正香らの見ているところを通り過ぎて行った。
 その時、オランダ人の参内を見送った群集はさらに英国公使の一行を待ち受けた。これは随行の赤備兵《あかぞなえへい》を引率していて、一層|華々《はなばな》しい見ものであろうという。ところが智恩院を出たはずの公使らの一行が、待っても、待ってもやって来ない。しまいには正香らはあきらめて、なおも辛抱強くそこに立ち尽くしている多勢の男や女の群れから離れた。
「暮田さん、なんだかわたしは夢のような気がする。」
 正香と一緒に歩き出した時の縫助の述懐だ。


 京都は、東征軍の進発に、諸藩の人々の動きに、諸制度の改変に、あるいは破格な外国使臣の参内に、一切が激しく移り変わろうとするまっ最中にある。
「縫助さん、よく君は出て来た。まあ、この復興の京都を見てくれたまえ。」
 口にこそ出さなかったが、正香はそれを目に言わせて、その足で堺町通りの角《かど》から丸太町を連れと一緒に歩いて行った。そこは平田門人仲間に知らないもののない染め物屋|伊勢久《いせきゅう》の店のある麩屋町《ふやまち》に近い。正香自身が仮寓《かぐう》する衣《ころも》の棚《たな》へもそう遠くない。
 正香が連れの縫助は、号を千足《ちたり》ともいう。伊那時代からの正香のなじみである。この人の上京は自身の用事のためばかりではなかった。旧冬十一月の二十二日に徳川慶喜が将軍職を辞したころから、国政は再び復古の日を迎えたとはいうものの、東国の物情はとかく穏やかでないと聞いて、江戸にある平田|篤胤《あつたね》の稿本類がいつ兵火の災に罹《かか》るやも知れないと心配し出したのは、伊那の方にある先師没後の門人仲間である。座光寺村の北原稲雄が発起《ほっき》で、伊
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