人がこういう意味の手紙を中津川から送ったのは、水戸浪士の通り過ぎてから十七日ほど後にあたる。
 美濃《みの》の中津川にあって聞けば、幕府の追討総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》の軍は水戸浪士より数日おくれて伊那の谷まで追って来たが、浪士らが清内路《せいないじ》から、馬籠、中津川を経て西へ向かったと聞き、飯田からその行路を転じた。総督は飯田藩が一戦をも交えないで浪士軍の間道通過に任せたことをもってのほかであるとした。北原稲雄兄弟をはじめ、浪士らの間道通過に斡旋《あっせん》した平田門人の骨折りはすでにくつがえされた。飯田藩の家老はその責めを引いて切腹し、清内路の関所を預かる藩士もまた同時に切腹した。景蔵や香蔵が訪《たず》ねて行こうとしているのはこれほど動揺したあとの飯田で、馬籠から中津川へかけての木曾街道筋には和宮様《かずのみやさま》御降嫁以来の出来事だと言わるる水戸浪士の通過についても、まだ二人は馬籠の半蔵と話し合って見る機会もなかった時だ。


「いかがですか。おしたくができましたら、出かけましょう。」
 香蔵は中津川にある問屋の家を出て、同じ町に住む景蔵が住居《すまい》の門口から声をかけた。そこは京都の方から景蔵をたよって来て身を隠したり、しばらく逗留《とうりゅう》したりして行くような幾多の志士たち――たとえば、内藤頼蔵《ないとうらいぞう》、磯山新助《いそやましんすけ》、長谷川鉄之進《はせがわてつのしん》、伊藤祐介《いとうゆうすけ》、二荒四郎《ふたらしろう》、東田行蔵《ひがしだこうぞう》らの人たちを優にかばいうるほどの奥行きの深い本陣である。そこはまた、過ぐる文久二年の夏、江戸屋敷の方から来た長州侯の一行が木曾街道経由で上洛《じょうらく》の途次、かねての藩論たる公武合体、航海遠略から破約|攘夷《じょうい》へと、大きく方向の転換を試みるための中津川会議を開いた由緒《ゆいしょ》の深い家でもある。
「どうでしょう、香蔵さん、大平峠《おおだいらとうげ》あたりは雪でしょうか。」
「さあ、わたしもそのつもりでしたくして来ました。」
 二人の友だちはまずこんな言葉をかわした。景蔵のしたくもできた。とりあえず馬籠まで行こう、二人して半蔵を驚かそうと言うのは香蔵だ。年齢の相違こそあれ、二人は旧《ふる》い友だちであり、平田の門人仲間であり、互いに京都まで出て幾多の政変の渦《うず》の中にも立って見た間柄である。その時の二人は供の男も連れず、途中は笠《かさ》に草鞋《わらじ》があれば足りるような身軽な心持ちで、思い思いの合羽《かっぱ》に身を包みながら、午後から町を離れた。もっとも、飯田の方に着いて同門の人たちと一緒になる場合を考えると紋付の羽織に袴《はかま》ぐらい風呂敷包《ふろしきづつ》みにして肩に掛けて行く用意は必要であり、馬籠本陣への手土産《てみやげ》も忘れてはいなかったが。
 中津川から木曾の西のはずれまではそう遠くない。その間には落合《おちあい》の宿一つしかない。美濃よりするものは落合から十曲峠《じっきょくとうげ》にかかって、あれから信濃《しなの》の国境《くにざかい》に出られる。各駅の人馬賃銭が六倍半にも高くなったその年の暮れあたりから見ると、二人の青年時代には駅と駅との間を通う本馬《ほんま》五十五文、軽尻《からじり》三十六文、人足二十八文と言ったところだ。
 水戸浪士らは馬籠と落合の両宿に分かれて一泊、中津川昼食で、十一月の二十七日には西へ通り過ぎて行った。飯田の方で北原兄弟が間道通過のことに尽力してからこのかた、清内路に、馬籠に、中津川に、浪士らがそれからそれと縁故をたどって来たのはいずれもこの地方に本陣庄屋なぞをつとめる平田門人らのもとであった。一方には幕府への遠慮があり、一方には土地の人たちへの心づかいがあり、平田門人らの苦心も一通りではなかった。木曾にあるものも、東美濃にあるものも、同門の人たちは皆この事件からは強い衝動を受けた。


 水戸浪士の通り過ぎて行ったあとには、実にいろいろなものが残った。景蔵と香蔵とがわざわざ名ざしで中津川から落合の稲葉屋《いなばや》まで呼び出され、浪士の一人なる横田東四郎から渋紙包みにした首級の埋葬方を依頼された時のことも、まだ二人の記憶に生々《なまなま》しい。これは和田峠で戦死したのをこれまで渋紙包みにして持参したのである。二男藤三郎、当年十八歳になるものの首級であると言って、実父の東四郎がそれを二人の前に差し出したのもその時だ。景蔵は香蔵と相談の上、夜中ひそかに自家の墓地にそれを埋葬した。そういう横田東四郎は参謀山国兵部や小荷駄掛《こにだがか》り亀山嘉治《かめやまよしはる》と共に、水戸浪士中にある三人の平田門人でもあったのだ。
 浪士らの行動についてはこんな話も残った。和田峠合戦のあとをうけ下諏訪《しもすわ》付近の混乱をきわめた晩のことで、下原村の百姓の中には逃げおくれたものがあった。背中には長煩《ながわずら》いで床についていた一人の老母もある。どうかして山手の方へ遠くと逃げ惑ううちに、母は背に負われて腹筋の痛みに堪《た》えがたいと言い出す。その時の母の言葉に、自分はこんな年寄りのことでだれもとがめるものはあるまい、その方は若者だ、どんな憂《う》き目を見ないともかぎるまいから、早く身を隠せよ。そう言われた百姓は、どうしたら親たる人を捨て置いてそこを逃げ延びたものかと考え、古筵《ふるむしろ》なぞを母にきせて介抱していると、ちょうどそこへ来かかった二人の浪士の発見するところとなった。お前は当所のものであろう、寺があらば案内せよ、自分らは主君の首を納めたいと思うものであると浪士が言うので、百姓は大病の老母を控えていることを答えて、その儀は堅く御免こうむりましょうと断わった。しからば自分の家来を老母に付けて置こう、早く案内せとその浪士に言われて見ると、百姓も断わりかねた。案内した先は三町ほど隔たった来迎寺《らいごうじ》の境内だ。浪士はあちこちと場所を選んだ。扇を開いて、携えて来た首級をその上にのせた。敬い拝して言うことには、こんなところで御武運つたなくなりたまわんとは夢にも知らなかった、御本望の達する日も見ずじまいにさぞ御残念に思《おぼ》し召されよう、軍《いくさ》の習い、是非ないことと思し召されよと、生きている人にでも言うようにそれを言って、暗い土の上にぬかずいた。短刀を引き抜いて、土中に深くその首級を納めた。それから浪士は元のところへ引き返して来て、それまで案内した男に褒美《ほうび》として短刀を与えたが、百姓の方ではそれを受けようとしなかった。元来百姓の身に武器なぞは不用の物であるとして、堅く断わった。そういうことなら、病める老母に薬を与えようとその浪士が言って、銀壱朱をそこに投げやりながら、家来らしい連れの者と一緒に下諏訪方面へ走り去ったという。
 こんな話を伝え聞いた土地のものは、いずれもその水戸武士の態度に打たれた。あれほどの恐怖をまき散らして行ったあとにもかかわらず、浪士らに対して好意を寄せるものも決して少なくはなかったのだ。
 景蔵、香蔵の二人は落合の宿まで行って、ある町角《まちかど》で一人の若者にあった。稲葉屋の子息《むすこ》勝重《かつしげ》だ。長いこと半蔵に就《つ》いて内弟子《うちでし》として馬籠本陣の方にあった勝重も、その年の春からは落合の自宅に帰って、年寄役の見習いを始めるほどの年ごろに達している。
「勝重さんもよい子息《むすこ》さんになりましたね。」
 驚くばかりの成長の力を言いあらわすべき言葉もないというふうに、二人は勝重の前に立って、まだ前髪のあるその額《ひたい》つきをながめながら、かわるがわるいろいろなことを尋ねて見た。この勝重に勧められて、しばらく二人は落合に時を送って行くことにした。その日は二人とも馬籠泊まりのつもりであり、急ぐ道でもなかったからで。のみならず、落合村の長老として知られた勝重の父儀十郎を見ることも、二人としては水戸浪士の通過以来まだそのおりがなかったからで。
 稲葉屋へ寄って見ると、そこでも浪士らのうわさが尽きない。横田東四郎からその子の首級を託せられた節は稲葉屋でも驚いたであろうという景蔵らの顔を見ると、勝重の父親はそれだけでは済まさなかった。あの翌朝、重立った幹部の人たちと見える浪士らが馬籠から落合に集まって、中津川の商人|万屋安兵衛《よろずややすべえ》と大和屋李助《やまとやりすけ》の両人をこの稲葉屋へ呼び出し、金子《きんす》二百両の無心のあったことを語り出すのも勝重の父親だ。
「その話はわたしも聞きました。」と景蔵が笑う。
「でも、世の中は回り回っていますね。」と香蔵は言った。「横浜貿易でうんともうけた安兵衛さんが、水戸浪士の前へ引き出されるなんて。」
「そこは安兵衛さんです。」と儀十郎は昔気質《むかしかたぎ》な年寄役らしい調子で、「あの人は即答はできないが、一同でよく相談して来ると言って、いったん中津川の方へ引き取って行きました。それから、あなた、生糸《きいと》取引に関係のあったものが割前で出し合いまして、二百両耳をそろえてそこへ持って来ましたよ。」
「あの安兵衛さんと水戸浪士の応対が見たかった。」と香蔵が言う。
 しかし、一方に、浪士らが軍律をきびしくすることも想像以上で、幹部の目を盗んで民家を掠奪《りゃくだつ》した一人の土佐《とさ》の浪人のあることが発見され、この落合宿からそう遠くない三五沢まで仲間同志で追跡して、とうとうその男を天誅《てんちゅう》に処した、その男の逃げ込んだ百姓家へは手当てとして金子一両を家内のものへ残して行ったと語って見せるのも、またこの儀十郎だ。
「何にいたせ、あの同勢が鋭い抜き身の鎗《やり》や抜刀で馬籠の方から押して来ました時は、恐ろしゅうございました。」
 それを儀十郎が言うと、子息は子息で、
「あの藤田小四郎が吾家《うち》へも書いたものを残して行きましたよ。大きな刀をそばに置きましてね、何か書くから、わたしに紙を押えていろと言われた時は、思わずこの手が震えました。」
「勝重、あれを持って来て、浅見さんにも蜂谷《はちや》さんにもお目にかけな。」
 浪士らは行く先に種々《さまざま》な形見を残した。景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、副将田丸稲右衛門が所伝の黒糸縅《くろいとおどし》の甲冑片袖《かっちゅうかたそで》を残した。それは玉子色の羽二重《はぶたえ》に白麻の裏のとった袋に入れて、別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。
「馬籠の御本陣へも何か残して置いて行ったようなお話です。」と儀十郎が言う。
「どうせ、帰れる旅とは思っていないからでしょう。」
 景蔵の答えだ。
 その時、勝重は若々しい目つきをしながら、小四郎の記念というものを奥から取り出して来た。景蔵らの目にはさながら剣を抜いて敵王の衣を刺し貫いたという唐土《とうど》の予譲《よじょう》を想《おも》わせるようなはげしい水戸人の気性《きしょう》がその紙の上におどっていた。しかも、二十三、四歳の青年とは思われないような老成な筆蹟《ひっせき》で。
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大丈夫当雄飛《だいじょうふまさにゆうひすべし》安雌伏《いずくんぞしふくせんや》
[#地から2字上げ]藤田信
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「そう言えば、浪士もどの辺まで行きましたろう。」
 景蔵らと稲葉屋親子の間にはそんなうわさも出る。
 その後の浪士らが美濃を通り過ぎて越前《えちぜん》の国まではいったことはわかっていた。しかしそれから先の消息は判然《はっきり》しない。中津川や落合へ飛脚が持って来る情報によると、十一月二十七日に中津川を出立した浪士らは加納藩《かのうはん》や大垣藩《おおがきはん》との衝突を避け、本曾街道の赤坂、垂井《たるい》あたりの要処には彦根藩《ひこねはん》の出兵があると聞いて、あれから道を西北方に転じ、長良川《ながらがわ》を渡ったものらしい。師走《しわす》の四日か五日ごろにはすでに美濃と越前の国境《くにざかい》にあたる蝿帽子峠《はえぼうしとうげ》の険路を越えて行った
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