き》、和歌や能楽に堪能《かんのう》なところからそれを諸人に教えながら古学をひろめたという甲府生まれの岩崎長世、この二人についで平田派の先駆をなしたのが義髄などだ。当時伊那にある四人の先輩のうち、片桐春一、北原稲雄、原信好の三人が南を代表するとすれば、義髄は北を代表すると言われている人である。
「青山君――こんな油断のならない旅は、わたしも初めてでしたよ。」
これは一度義髄を見たものが忘れることのできないような頬髯《ほおひげ》の印象と共に、半蔵のところに残して行ったこの先輩の言葉だ。
半蔵は周囲を見回した。義髄が旅の話も心にかかった。あの大和《やまと》五条の最初の旗あげに破れ、生野銀山《いくのぎんざん》に破れ、つづいて京都の包囲戦に破れ、さらに筑波《つくば》の挙兵につまずき、近くは尾州の御隠居を総督にする長州征討軍の進発に屈したとは言うものの、所詮《しょせん》このままに屏息《へいそく》すべき討幕運動とは思われなかった。この勢いのおもむくところは何か。
そこまでつき当たると、半蔵は一歩退いて考えたかった。日ごろ百姓は末の考えもないものと見なされ、その人格なぞはてんで話にならないものと
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