、砥沢口《とざわぐち》合戦の日にも和田峠に近づかず、諏訪《すわ》松本両勢の苦戦をも救おうとせず、必ず二十里ずつの距離を置いて徐行しながら水戸浪士のあとを追って来たというのも、そういう幕府の追討総督だ。
ともあれ、この飯田藩家老の死は強い力をもって伊那地方に散在する平田門人を押した。もともと飯田藩では初めから戦いを避けようとしたでもない。御会所の軍議は籠城《ろうじょう》のことに一決され、もし浪士らが来たら市内は焼き払われて戦乱の巷《ちまた》ともなるべく予想されたから、飯田の町としては未曾有《みぞう》の混乱状態を現出した際に、それを見かねてたち上がったのが北原稲雄兄弟であるからだ。稲雄がその弟の豊三郎をして地方係りと代官とに提出させた意見書の中には、高崎はじめ諏訪《すわ》高遠《たかとお》の領地をも浪士らが通行の上のことであるから、当飯田の領分ばかりが恥辱にもなるまいとの意味のことが認《したた》めてあった。豊三郎はそれをもって、おりから軍議最中の飯田城へ駆けつけたところ、郡奉行《こおりぶぎょう》はひそかに彼を別室に招き間道通過に尽力すべきことを依託したという。その足で豊三郎は飯田の町役人と
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