しての半蔵の家の玄関に旅の草鞋《わらじ》を脱いだその日から、そして本陣の一室で法衣|装束《しょうぞく》に着かえて久しぶりの寺の山門をくぐったその日から、十三年も達磨《だるま》の画像の前にすわりつづけて来たような人の自ら鐘楼に登って撞《つ》き鳴らす大鐘だ。
まだ朝の眠りをむさぼっている妻のそばで、半蔵はその音に耳を澄ました。谷から谷を伝い、畠《はたけ》から畠をはうそのひびきは、和尚が僧|智現《ちげん》の名も松雲と改めて万福寺の住職となった安政元年の昔も、今も、同じ静かさと、同じ沈着《おちつき》とで、清く澄んだ響きを伝えて来ている。
一音。また一音。半蔵の耳はその音の意味を追った。あのにぎやかな「ええじゃないか」の卑俗と滑稽《こっけい》とに比べたら、まったくこれは行ないすました閑寂《かんじゃく》の別天地から来る、遠い世界の音だ。それにしても、この驚くべき社会の変革の日にあたって、日々の雲でも変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにしか、心を動かされない人の修行から、その鐘は響き出して来ている。その異教の沈着《おちつき》はいっそ半蔵を驚かした。多くの憂国の士が生命《いのち》をかけても幕政に抵抗したり国事に奔走したりするというこの難《かた》い時代に、こういう和尚のような人も生きていたかということは、なおなお彼を驚かした。
「お民。」
半蔵は妻を揺り起こした。彼は自分でもはね起きて、中津川にある友人香蔵のもとまで京都の様子を探りに行こうと思い立った。
「こんな山の中にいたんじゃ、さっぱり様子がわからん。王政復古の日はもう来ているんじゃないか。」
その考えから、彼はお民に言い付けて下女を起こさせ、囲炉裏《いろり》の火をたかせ、中津川の方へ出かける前の朝飯のしたくをさせた。
慶応三年十二月のことで、街道は雪で白くおおわれていた。朝飯を済ますと間もなく半蔵は庄屋《しょうや》らしい袴《はかま》に草鞋《わらじ》ばきで、荒町にある村社までさくさく音のする雪の道を踏んで行った。氏神への参拝を済まして鳥居《とりい》の外へ出るころ、冬にしては温暖《あたたか》な日の光も街道にあたって来た。彼はその道を国境《くにざかい》へと取って、さらに宿はずれの新茶屋まで歩いた。例の路傍《みちばた》にある芭蕉《ばしょう》の句塚《くづか》も雪にぬれている。見知り越しな亭主《ていしゅ》のいる休み茶屋もある。しばらく彼はそこに足を休めていると、ちょうど国境の一里塚の方から馬籠《まごめ》をさして十曲峠《じっきょくとうげ》を上って来る中津川の香蔵にあった。香蔵は落合《おちあい》の勝重《かつしげ》をも連れてやって来た。
「お師匠さま。」
その勝重の昔に変わらぬ人なつこい声をも半蔵は久しぶりで聞いた。
「半蔵さん、君は中津川まで行かずに済むし、わたしたちも馬籠まで行かずに済む。この茶屋で話そうじゃありませんか。」
香蔵の提議だ。
その時、半蔵は初めて王政復古の成り立ったことを知り、岩倉公を中心にする小御所の会議には薩州土州芸州越前四藩のほかに尾張も参加したことを知った。その時になると、長州藩主父子は官位を復して入洛《じゅらく》を許さるることとなり、太宰府《だざいふ》にある三条|実美《さねとみ》らの五卿もまた入洛復位を許されて、その時までの舞台は全く一変した。慶喜と会津と桑名とは除外せられ、会桑二藩が宮門警衛をも罷《や》められた。摂政、関白の大官も廃され、幕府はその時に全く終わりを告げた。この消息は京都にある景蔵からの書面に伝えてある。半蔵との連名にあてて書いてよこしたと言って、香蔵の持参したものにこの消息が伝えてある。
香蔵は言った。
「この前、京都から来た手紙には、こんなことが書いてありました。慶喜公が大政奉還の上表を出したとほとんど同じ日に、薩長二藩へ討幕の密勅が下ったということを確かな筋から聞き込んだが、君らはあれをどう思うか、その密勅がまた間もなくお取りやめとなったというが、あれをもどう思うかとありました。わたしも変だと思って、だれにも見せずにしまって置くうちに、この復古の報知《しらせ》が来ました。」
「見たまえ。」と半蔵はそれを受けて言った。「この手紙には、当日尾州でも禁門を守衛したとありますね。檐下詰《のきしたづ》めには小瀬新太郎を首《かしら》にする近侍の士、堂上裏門の警備には供方《ともかた》をそれに当てたとありますね。」
「まあ、早い話が、先年の八月十八日の政変を逆に行ったんでしょうね。あの時はわたしは京都にいて、あの政変にあいましたから、今度のこともほぼ想像がつきます。いずれここまで出て来るには、何か動いたに相違ありません。何か、最後の力が動いたに相違ありません。」
香蔵と半蔵とは顔を見合わせて、それから京都にある師|鉄胤《かねたね》なぞのうわさ
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