に寝泊まりして行った部屋である。この半蔵の話が、外交条約のことに縁故の深い駿河の心をひいた。
「御主人はまだお聞きにもなりますまいが、いよいよ条約も朝廷からお許しが出ましたよ。長い間の条約の大争いも一段落を告げる時が来ました。井伊大老や岩瀬肥後なぞの骨折りも、決してむだにはならなかった。そう思って、わたしたちは自分を慰めますよ。やかましい攘夷《じょうい》の問題も今に全くなくなりましょう。この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもありますまい。」
駿河はそれを半蔵に言って見せて、両手を後方に組み合わせながら、あちこちとその部屋の内を静かに歩き回った。あだかもそこの壁や柱にむかって話しかけでもするかのように……
大目付で外国奉行を兼ねた人の口からもれて来たことは、何がなしに半蔵の胸に迫った。彼はまだ将軍辞職の真相も知らず、それを説き勧めた人が自分の目の前にいるとも知らず、ましてその人が閉門謹慎の日を送るために江戸へ行く途中にあるとは夢にも知らなかった。ただ、衰えた徳川の末の代に、どうかしてそれをささえられるだけささえようとしているような、こんな頼もしい人物も幕府方にあるかと想《おも》って見た。
深い秋雨はなかなかやみそうもない。大目付に随《つ》いて来た家来の衆はいずれもひどく疲れが出たというふうで、部屋の片すみに高いびきだ。半蔵は清助を相手に村方の用事なぞを済まして置いて、また客人を上段の間に見に行こうとした。心にかかる京大坂の方の様子も聞きたくて、北側の廊下を回って行って見た。思いがけなくも、彼はその隠れた部屋の内に、激しくすすり泣く客人を見つけた。
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第十二章
一
「お父《とっ》さんは。」
一日の勤めを終わって庄屋《しょうや》らしい袴《はかま》を脱いだ半蔵は、父|吉左衛門《きちざえもん》のことを妻のお民にたずねた。
「お民、ひょっとするとおれは急に思い立って、名古屋まで行って来るかもしれないぜ。もし出かけるようだったら、留守を頼むよ。お父《とっ》さんやお母《っか》さんにもよく頼んで行く――なんだか西の方のことが心配になって来た。」
とまた彼は言って妻の顔を見た。半蔵夫婦の間にはお夏《なつ》という女の子も生まれたが、わずか六十日ばかりでその四番目の子供は亡《な》くなったころだ。お民の顔色もまだ青ざめている。
馬籠の宿場では慶応二年の七月を迎えている。毎年上り下りの大名がおびただしい人数を見る盆前の季節になっても、通行はまれだ。わずかに野尻《のじり》泊まり、落合泊まりで上京する信州|小諸《こもろ》城主牧野|遠江守《とおとうみのかみ》の一行をこの馬籠峠の上に迎えたに過ぎない。これは東山道方面ばかりでないと見えて、豊川稲荷《とよかわいなり》から秋葉山へかけての参詣《さんけい》を済まして帰村したものの話に、旅人の往来は東海道筋にも至って寂《さみ》しかったという。人馬共に通行は一向になかったともいう。街道もひっそりとしていた。
「半蔵、長州征伐のことはどうなったい。」
夕方から半蔵が父の隠居する裏二階の方へのぼって行って見ると、吉左衛門はまずそれを半蔵にきいた。物情騒然とも言うべき時局のことは、半蔵ばかりでなく、年老いた吉左衛門の心をも静かにしては置かなかった。
父が住む裏二階には、座敷先のような仮廂《かりびさし》こそ掛けてないが、二間ある部屋《へや》の襖《ふすま》も取りはずして、きびしい残暑も身にしみるというふうに、そこいらは風通しよく片づけてある。一日|母屋《もや》の方に働いていた継母のおまんも、父のそばに戻《もど》って来ている。父は先代の隠居半六が余生を送ったこの同じ部屋にすわって、相手のおまんに肩なぞをもませながら、六十八年の街道生活を思い出しているような人である。
「西の方の様子はどうかね。」とおまんまでが父の背後《うしろ》にいてそれを半蔵にたずねた。
「なんですか、こんな山の中にいたんじゃ、さっぱり本当のことがわかりません。小倉《こくら》方面に戦争のあったことまではよくわかってますがね、あれから以後は確かな聞書《ききがき》も手に入りません。幕府方の勝利は疑いないとか、大勝利は近いうちにあるとか、そんな雲をつかむようなことばかりです。」と半蔵が答える。
「まあ、しかしおれは隠居の身だ。」と吉左衛門は言った。「きょうは佐吉を連れて、墓|掃除《そうじ》に行って来たよ。もう盆も近いからな。」
吉左衛門とおまんとは、新たに子供を失った半蔵よりもお民の方を案じて、中津川からもらった瓜《うり》も新しい仏のために取って置こうとか、本谷というところへ馬買いに行ったものから土産《みやげ》にと贈られた桃も亡《な》き孫娘(お夏)の霊前に供えようとか、そんな老夫婦らしい心づかいをして
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