半蔵は馬籠本陣の方にいて、この水戸浪士を待ち受けた。彼が贄川《にえがわ》や福島の庄屋《しょうや》と共に急いで江戸を立って来たのは十月下旬で、ようやく浪士らの西上が伝えらるるころであった。時と場合により、街道の混乱から村民を護《まも》らねばならないとの彼の考えは、すでにそのころに起こって来た。諸国の人の注意は尊攘を標榜《ひょうぼう》する水戸人士の行動と、筑波《つくば》挙兵以来の出来事とに集まっている当時のことで、那珂港《なかみなと》の没落と共に榊原新左衛門《さかきばらしんざえもん》以下千二百余人の降参者と武田耕雲斎はじめ九百余人の脱走者とをいかに幕府が取りさばくであろうということも多くの人の注意を引いた。三十日近くの時の間には、幕府方に降《くだ》った宍戸侯《ししどこう》(松平|大炊頭《おおいのかみ》)の心事も、その運命も、半蔵はほぼそれを聞き知ることができたのである。幕府の参政田沼玄蕃頭は耕雲斎らが政敵市川三左衛門の意見をいれ、宍戸侯に死を賜わったという。それについで死罪に処せられた従臣二十八人、同じく水戸藩士|二人《ふたり》、宍戸侯の切腹を聞いて悲憤のあまり自殺した家来数人、この難に死んだものは都合四十三人に及んだという。宍戸侯の悲惨な最期――それが水戸浪士に与えた影響は大きかった。賊名を負う彼らの足が西へと向いたのは、それを聞いた時であったとも言わるる。「所詮《しょせん》、水戸家もいつまで幕府のきげんを取ってはいられまい」との意志の下に、潔く首途《かどで》に上ったという彼ら水戸浪士は、もはや幕府に用のない人たちだった。前進あるのみだった。
半蔵に言わせると、この水戸浪士がいたるところで、人の心を揺り動かして来るには驚かれるものがある。高島城をめがけて来たでもないものがどうしてそんなに諏訪藩《すわはん》に恐れられ、戦いを好むでもないものがどうしてそんなに高遠藩《たかとおはん》や飯田藩《いいだはん》に恐れられるだろう。実にそれは命がけだからで。二百何十年の泰平に慣れた諸藩の武士が尚武《しょうぶ》の気性のすでに失われていることを眼前に暴露して見せるのも、万一の節はひとかどの御奉公に立てと日ごろ下の者に教えている人たちの忠誠がおよそいかなるものであるかを眼前に暴露して見せるのも、一方に討死《うちじに》を覚悟してかかっているこんな水戸浪士のあるからで。
それにしても、江戸両国の橋の上から丑寅《うしとら》の方角に遠く望んだ人たちの動きが、わずか一月《ひとつき》近くの間に伊那の谷まで進んで来ようとは半蔵の身にしても思いがけないことであった。水戸の学問と言えば、少年時代からの彼が心をひかれたものであり、あの藤田東湖の『正気《せいき》の歌』なぞを好んで諳誦《あんしょう》したころの心は今だに忘れられずにある。この東湖先生の子息《むすこ》さんにあたる人を近くこの峠の上に、しかも彼の自宅に迎え入れようとは、思いがけないことであった。平田門人としての彼が、水戸の最後のものとも言うべき人たちの前に自分を見つける日のこんなふうにして来ようとは、なおなお思いがけないことであった。
別に、半蔵には、浪士の一行に加わって来るもので、心にかかる一人の旧友もあった。平田同門の亀山嘉治《かめやまよしはる》が八月十四日|那珂港《なかみなと》で小荷駄掛《こにだがか》りとなって以来、十一月の下旬までずっと浪士らの軍中にあったことを半蔵が知ったのは、つい最近のことである。いよいよ浪士らの行路が変更され、参州街道から東海道に向かうと見せて、その実は清内路より馬籠、中津川に出ると決した時、二十六日馬籠泊まりの触れ書と共にあの旧友が陣中からよこした一通の手紙でその事が判然《はっきり》した。それには水戸派尊攘の義挙を聞いて、その軍に身を投じたのであるが、寸功なくして今日にいたったとあり、いったん武田藤田らと約した上は死生を共にする覚悟であるということも認《したた》めてある。今回下伊那の飯島というところまで来て、はからず同門の先輩暮田正香に面会することができたとある。馬籠泊まりの節はよろしく頼む、その節は何年ぶりかで旧《むかし》を語りたいともある。
「半蔵さん、この騒ぎは何事でしょう。」
と言って、隣宿|妻籠《つまご》本陣の寿平次はこっそり半蔵を見に来た。
その時は木曾福島の代官山村氏も幕府の命令を受けて、木曾谷の両端へお堅めの兵を出している。東は贄川《にえがわ》の桜沢口へ。西は妻籠の大平口へ。もっとも、妻籠の方へは福島の砲術指南役|植松菖助《うえまつしょうすけ》が大将で五、六十人の一隊を引き連れながら、伊那の通路を堅めるために出張して来た。夜は往還へ綱を張り、その端に鈴をつけ、番士を伏せて、鳴りを沈めながら周囲を警戒している。寿平次はその妻籠の方の報告を持って、馬籠
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