人の一人《ひとり》とありますね。」
「どうです、平田先生の本は木板が鮮明で、読みいいでしょう。」
「たしかに特色が出ていますね。」
「この第一|帙《ちつ》の方は伊那《いな》の門人の出資で、今度できたのは甲州の門人の出資です。いずれ、わたしも阿爺《おやじ》と相談して、この上木の費用を助けるつもりです。」
「半蔵さん、今じゃ平田先生の著述というものはひろく読まれるそうじゃありませんか。こういう君たちの仕事はいい。ただ、わたしの心配することは、半蔵さんがあまり人を信じ過ぎるからです。君はなんでも信じ過ぎる。」
「寿平次さんの言うことはよくわかりますがね、信じてかかるというのが平田門人のよいところじゃありませんか。」
「信を第一とす、ですか。」
「その精神をヌキにしたら、本居《もとおり》や平田の古学というものはわかりませんよ。」
「そういうこともありましょうが、なんというか、こう、君は信じ過ぎるような気がする――師匠でも、友人でも。」
「……」
「そいつは、気をつけないといけませんぜ。」
「……」
「そう言えば、半蔵さん、京都の方へ行ってる景蔵さんや香蔵さんもどうしていましょう。よくあんなに中津川の家を留守にして置かれると思うと、わたしは驚きます。」
「それはわたしも思いますよ。」
「半蔵さんも、京都の方へ行って見る気が起こるんですかね。」
「さあ、この節わたしはよく京都の友だちの夢を見ます。あんな夢を見るところから思うと、わたしの心は半分京都の方へ行ってるのかもしれません。」
「お父《とっ》さんもそれで心配していますぜ。さっき、裏の二階でお父さんと二人《ふたり》ぎりになった時にも、いろいろそのお話が出ました。何もお父さんのようにそう黙っていることはない。半蔵さんとわたしの仲で、これくらいのことの言えないはずはない。そう思って、わたしはあの二階から降りて来ました。」
「いや、あの阿爺《おやじ》がなかったら、とッくにわたしは家を飛び出していましょうよ……」
下女が夕飯のしたくのできたことを知らせるころは、二人はもうこんな話をしなかった。半蔵が寿平次を寛《くつろ》ぎの間《ま》へ案内して行って見ると、吉左衛門は裏二階から、金兵衛は上の伏見屋の方からそこに集まって来ていた。
「どうだ、寿平次、金兵衛さんはことし六十七におなりなさる。おれより二つ上だ。それにしてはずいぶん御達者さね
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