とをだれにも隠そうとした。彼の周囲にいて本居《もとおり》平田の古学に理解ある人々にすら、この大和五条の乱は福島の旦那《だんな》様のいわゆる「浪人の乱暴」としか見なされなかったからで。
木曾谷支配の山村氏が宿村に与えた注意は、単に時勢を弁別せよというにとどまらなかった。何方《いずかた》に一戦が始まるとしても近ごろは穀留《こくど》めになる憂いがある。中には一か年食い継ぐほどの貯《たくわ》えのある村もあろうが、上松《あげまつ》から上の宿々では飢餓しなければならない。それには各宿各村とも囲い米《まい》の用意をして非常の時に備えよと触れ回った。十六歳から六十歳までの人別《にんべつ》名前を認《したた》め、病人不具者はその旨を記入し、大工、杣《そま》、木挽《こびき》等の職業までも記入して至急福島へ差し出せと触れ回した。村々の鉄砲の数から、猟師筒《りょうしづつ》の玉の目方まで届け出よと言われるほど、取り締まりは実に細かく、やかましくなって来た。
六
江戸の方の道中奉行所でも木曾十一宿から四、五人の総代まで送った定助郷《じょうすけごう》設置の嘆願をそう軽くはみなかった。その証拠には、馬籠《まごめ》からもそのために出て行った蓬莱屋《ほうらいや》新七などを江戸にとどめて置いて、各宿人馬|継立《つぎた》ての模様を調査する公役(道中奉行所の役人)が奥筋の方面から木曾路を巡回して来た。
もはや秋雨が幾たびとなく通り過ぎるようになった。妻籠《つまご》の庄屋寿平次、年寄役得右衛門の二人《ふたり》は江戸からの公役に付き添いで馬籠までやって来た。ちょうど伊之助は木曾福島出張中であったので、半蔵と九郎兵衛とがこの一行を迎えて、やがて妻籠の寿平次らと一緒に美濃《みの》の方面にあたる隣宿|落合《おちあい》まで公役を見送った。
「半蔵さん。」
と声をかけながら、寿平次は落合から馬籠への街道を一緒に踏んだ。前には得右衛門と九郎兵衛、後ろには供の佐吉が続いた。公役見送りの帰りとあって、妻籠と馬籠の宿役人はいずれも袴《はかま》に雪駄《せった》ばきの軽い姿になった。半蔵の脱いだ肩衣《かたぎぬ》は風呂敷包《ふろしきづつ》みにして佐吉の背中にあった。
「そう言えば、半蔵さんのお友だちは二人ともまだ京都ですか。」
「そうですよ。」
「よくあれで留守が続くと思う。」
「さあ、わたしもそれは心配してい
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