香蔵がそれを言い出した。
「わたしは元服を済ますまで盃を手にするなって、吾家《うち》の阿爺《おやじ》に堅く禁じられていますよ。」と勝重はすこし顔を紅《あか》らめる。
「まあ、そう言わなくてもいい。きょうは特別だ。時に、勝重さん、どうです。君なぞは幕府が倒れると思っていましたかい。」
「まさか幕府が倒れようとは思いませんでした。徳川の世も末になったとは思いましたがね。」
「そうだろうね。だれだってあの慶喜公が将軍職を投げ出そうとは夢にも思わなかったからね。勝重さんは雪に折れる竹の音を聞いたことがあろう。あの音だよ。慶喜公が投げ出したと聞いた時、わたしはあの竹の折れる音の鋭さを思い出したよ。考えて見ると、ひどい血も流さずによくこの復古が迎えられた。なんと言っても、慶喜公は慶喜公だけのことはあるね。」
 香蔵と勝重とはこんなふうに語り合った。その時、半蔵は二人《ふたり》の話を引き取って、
「しかし、香蔵さん、今の君の話さ。ひどい血を流さずに復古を迎えられたという話さ。そこがわれわれの国柄をあらわしていやしませんか。なかなか外国じゃ、こうは行くまいと思う。」
「それもあるナ。」と香蔵が言う。
「まあ、わたしは一晩寝て、目がさめて見たら、もうこんな王政復古が来ていましたよ。」
 勝重はそんなふうに、香蔵にも半蔵にも言って見せた。
「ようやく。ようやく。」
 半蔵もそれを言って、串魚《くしうお》に豆腐の汁《つゆ》、塩烏賊《しおいか》のおろしあえ、それに亭主の自慢な蕪《かぶ》と大根の切り漬けぐらいで、友人と共に山家の酒をくみかわした。
 冬の日は茶屋の内にも外にも満ちて来た。食後に半蔵らは茶屋の前にある翁塚《おきなづか》のあたりを歩き回った。踏みしめる草鞋《わらじ》の先は雪|溶《ど》けの道に燃えて、歩き回れば歩き回るほど新しいよろこびがわいた。一切の変革はむしろ今後にあろうけれど、ともかくも今一度、神武《じんむ》の創造へ――遠い古代の出発点へ――その建て直しの日がやって来たことを考えたばかりでも、半蔵らの目の前には、なんとなく雄大な気象が浮かんだ。
 日ごろ忘れがたい先師の言葉として、篤胤《あつたね》の遺著『静《しず》の岩屋《いわや》』の中に見つけて置いたものも、その時半蔵の胸に浮かんで来た。
「一切は神の心であらうでござる。」




[#地から2字上げ]「夜明け前」第一部――
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