、三千人の手兵を率いて、あるものはすでに入京し、あるものは摂津《せっつ》の海岸や西の宮に到着して上国の報を待つという物々しさに満たされて来た。名古屋と京都との往来も頻繁《ひんぱん》になって、薩長土肥等の諸藩と事を京畿《けいき》に共にしようとする金鉄組の諸士らは進み、佐幕派として有力な御小納戸《おこなんど》、年寄、用人らは退きつつあった。成瀬正肥《なるせまさみつ》、田宮如雲《たみやじょうん》、荒川甚作《あらかわじんさく》らの尾州藩でも重立った勤王の士が御隠居を動かして百方この間に尽力していることは、手に取るように半蔵のところへも知れて来る。王政復古の実現ももはや時の問題となった。
こういう空気の中で、半蔵の耳には思いがけない新しい声が聞こえて来た。彼はその声を京都にいる同門の人からも、名古屋にある有志からも、飯田《いいだ》方面の心あるものからも聞きつけた。
「王政の古《いにしえ》に復することは、建武中興《けんむちゅうこう》の昔に帰ることであってはならない。神武《じんむ》の創業にまで帰って行くことであらねばならない。」
その声こそ彼が聞こうとして待ちわびていたものだ。多くの国学者が夢みる古代復帰の夢がこんなふうにして実現される日の近づいたばかりでなく、あの本居翁が書きのこしたものにも暗示してある武家時代以前にまでこの復古を求める大勢が押し移りつつあるということは、おそらく討幕の急先鋒《きゅうせんぽう》をもって任ずる長州の志士たちですら意外とするところであろうと彼には思われた。
中津川の友人香蔵から半蔵が借り受けた写本の中にも、このことが説いてある。それを見ると世には名も知らない隠れた人があって、みんなが言おうとしてまだ言い得ないでいることをよく言いあらわして見せてくれるような篤志家のあることがわかる。その写本の中には、こういうことが説いてある。建武の中興は上《かみ》の思《おぼ》し召しから出たことで、下々《しもじも》にある万民の心から起こったことではない。だから上の思し召しがすこし動けばたちまち武家の世となってしまった。ところが今度多くのものが期待する復古は建武中興の時代とは違って、草叢《くさむら》の中から起こって来た。そう説いてある。草叢の中が発起なのだ。それが浪士から藩士、藩士から大夫、大夫から君侯というふうに、だんだん盛大になって、自然とこんな復古の機運をよび
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