の下の力持ち――そうだ、おれは自分のことを縁の下の力持ちだと思うが、どうだい。宿場の骨折りなぞはお前、説いても詮《せん》のないことだ。」
夫婦はこんな言葉をかわした。
旅するものによい季節を迎えて、やがてこの街道では例年のとおりな日光例幣使の一行を待ち受けた。四月の声を聞くころには、その先触れも到来するようになった。
二百十日の大嵐《おおあらし》にたとえて百姓らの恐怖する「例幣使さま」の通行ほど、当時の社会における一面の真相を語るものはない。それは脅迫と強請のほかの何物でもない。毎年のきまりで馬籠の宿方《しゅくがた》が一行に搾《しぼ》られる三、四十両の金があれば、たとい十両につき三俵替えの値段でも、九俵から十二俵の飯米を美濃《みの》地方より輸入することができる。
事実、この地方には、三月四月は食いじまいと百姓のよく言うころがやって来ていた。しかも、前年凶作のあとを受けてのその食いじまいだ。引き続いた世間一統の米高で、盗難はしきりに起こる、宿内での大きな造り酒屋、桝田屋《ますだや》と伏見屋との二軒の門口には、白米一升につき六百文で売り渡せとの文句を張り札にして、夜中にそれをはりつけて行くものさえあらわれる。上の伏見屋の金兵衛が古稀《こき》の祝いを名目に、村じゅうへの霑《うるお》いのためとして、四俵の飯米を奮発したぐらいでは、なかなか追いつかない。余儀なく、馬籠の町内をはじめ、荒町、峠村では、ごく難渋なものへ施し米《まい》でも始めねばなるまいと言って騒いでいるほどの時だ。
そこへ「例幣使さま」だ。行く先の道中で旅館に金をねだったり、人足までもゆすったりするようなその一行は、公卿《くげ》、大僧正《だいそうじょう》をはじめ約五百人からの大集団で、例の金の御幣《ごへい》を中心に文字通りの大嵐のような勢いで、四月六日には落合泊まりで馬籠の宿場へ繰り込んで来た。どうして京都と江戸の間を一往復して少なくとも一年間は寝食いができるというような乱暴な人たちの耳に、宿駅の難渋を訴える声がはいろうはずもない。服従に服従を重ねて来た地方の人民も、こんな恐ろしい「例幣使さま」の掠奪《りゃくだつ》に対してはこれ以上の忍耐はできなかった。
「逃げろ、逃げろ。」
その声は継立《つぎた》てをしいられる会所の宿役人仲間からも、問屋場の前に集まる人足、馬力の仲間からも起こった。ちょうど会所に詰
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