》、三留野《みどの》両宿ともに格別の障《さわ》りはないとのうわさもあり、中津川辺も同様で、一向にそのうわさもない。ただ、隣宿|落合《おちあい》の被害は馬籠よりも大きかったということで、潰《つぶ》れ家およそ十四、五軒、それに死傷者まで出した。こんな暴風雨に襲われたことはこの地方でもめったにない。しかし強雨のしきりにやって来ることはその年ばかりでなく、前年から天候は不順つづきで、あんな雨の多い年はまれだと言ったくらいだ。半蔵の家で幕府の大目付《おおめつけ》山口|駿河《するが》を泊めた前あたりのころに、すでにその年の米穀は熟するだろうかと心配したくらいだった。
 その前年の不作は町方一同の貯《たくわ》えに響いて来ている。田にある稲穂も奥手《おくて》の分はおおかた実らない。凶作の評判は早くも村民の間に立ち始めた。
「天明七年以来の飢饉《ききん》でも襲って来るんじゃないか。」
 だれが言い出すともないようなその声は半蔵の胸を打った。社会は戦時の空気の中に包まれていて、内憂外患のうわさがこもごもいたるという時に、おまけにこの天災だ。


 宿役人の集まる会所も荒れて、屋根|葺《ふ》き替えのために七百枚ほどの栗板《くりいた》が問屋場《といやば》のあたりに運ばれるころは、妻籠《つまご》本陣の寿平次もちょっと日帰りで半蔵親子のところへ大風の見舞いに来た。
 そろそろ半蔵は村民のために飯米の不足を心配しなければならなかったのである。そこで、寿平次をつかまえて尋ねた。
「寿平次さん、君の村にはどうでしょう、米の余裕はありますまいか。」
 この注文の無理なことは半蔵も承知していた。樅《もみ》、栂《つが》、椹《さわら》、欅《けやき》、栗《くり》、それから檜木《ひのき》なぞの森林の内懐《うちぶところ》に抱かれているような妻籠の方に、米の供給は望めない。妻籠から東となると、耕地はなおさら少ない。西南の日あたりを受けた傾斜の多い馬籠の地勢には竹林を見るが、木曾谷《きそだに》の奥にはその竹すら生長しないところさえもある。
 その時は半蔵以外の宿役人も、いずれもじっとしていなかった。問屋九郎兵衛をはじめ、年寄役の桝田屋小左衛門《ますだやこざえもん》、同役|蓬莱屋《ほうらいや》新七の忰《せがれ》新助、同じく梅屋五助なぞは、組頭《くみがしら》の笹屋庄助《ささやしょうすけ》と共に思い思いに奔走していた。ちょ
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