、薩摩《さつま》も沈黙し、ただ長州の活動に任せてあったようであるが、その実、幾多の勢力の錯綜《さくそう》していたことを忘れてはならない。その中にあって、京都の守護をもって任じ、帝の御親任も厚かった会津が、次第に長州と相対峙《あいたいじ》する形勢にあったことを忘れてはならない。たとい王室尊崇の念において両者共にかわりはなくとも、早く幕府に見切りをつけたものと、幕府から頼まるるものとでは、接近する堂上の公卿《くげ》たちを異《こと》にし、支持する勢力を異にし、地方的な気質と見解とをも異にしていた。あらゆる点で両極端にあったようなこの東西両藩の間にはさまれていたものが尾州藩だ。もとより尾州に人がなくもない。成瀬正肥《なるせまさみつ》のような重臣があって、将軍上洛以前から勅命を奉じて京都の方に滞在する御隠居を助けていた。伊勢《いせ》、熱田《あつた》の両神宮、ならびに摂津海岸の警衛を厳重にして、万一の防禦《ぼうぎょ》に備えたのも、尾州藩の奔走周旋による。尾州の御隠居は京都にあって中国の大藩を代表していたと見ていい。
 不幸にも御隠居と藩主との意見の隔たりは、あだかも京都と江戸との隔たりであった。御隠居の重く用いる成瀬正肥が京都で年々米二千俵を賞せられたようなこと、また勤王家として知られた田宮如雲《たみやじょうん》以下の人たちが多く賞賜せられたようなことは、藩主たる茂徳《もちのり》のあずかり知らないくらいであった。もともと御隠居は安政大獄の当時、井伊大老に反対して幽閉せられた閲歴を持つ人で、『神祇宝典《じんぎほうてん》』や『類聚日本紀《るいじゅうにほんぎ》』なぞを選んだ源敬公の遺志をつぎ、つとに尊王の志を抱《いだ》いたのであった。徳川御三家の一つではありながら、必ずしも幕府の外交に追随する人ではなかった。この御隠居側に対外硬を主張する人たちがあれば、藩主側には攘夷を非とする人たちがあった。尾州に名高い金鉄組とは、法外なイギリスの要求を拒絶せよと唱えた硬派の一団である。江戸の留守役をあずかり外交当局者の位置に立たせられた藩主側は、この意見に絶対に反対した。もし無謀の戦《いくさ》を開くにおいては、徳川家の盛衰浮沈にかかわるばかりでない、万一にもこの国の誇りを傷つけられたら世界万国に対して汚名を流さねばならない、天下万民の永世のことをも考えよと主張したのである。
 外人殺傷の代償も大き
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