光っていることを忘れてはならない。山村の旦那《だんな》様は尾州の代官とは言っても、木曾街道要害の地たる福島の関所を幕府から預かっている深い縁故から、必ずしも尾州藩と歩調を同じくする人ではなく、むしろ徳川直属の旗本をもって自ら任じていることを忘れてはならない。往昔《むかし》、関ヶ原の戦いに東山道の先導となって徳川家に忠勤をぬきんでた山村氏の歴史を考えて見ても、それがわかる。平田|篤胤《あつたね》没後の門人が、福島の旦那様によろこばれるかよろこばれないかは言わずと知れたことであって、その地方の関係から言っても、馬籠の庄屋としての半蔵には中津川の景蔵《けいぞう》や香蔵《こうぞう》のような自由がない。どんな姿を変えた探偵《たんてい》が平田門人らの行動を注意していまいものでもない。おまけに、ここは街道だからで。
「壁にも耳のある世の中だぞ。まあ、半蔵にもよほど気をつけてもらわにゃならん。」と吉左衛門が言う。
「そんなら、あなた、こうするといい。」とおまんは思いついたように、「岩村には吾家《うち》の親類もありますからね。半蔵の留守中に、もし人が尋ねましたら、美濃《みの》の親類までまいりました、そう言ってわたしが取りつくろいましょう。名古屋までとは言わずに置きましょうわい。」
「いや、お母《っか》さんにそう言って留守を引き受けていただけば、わたしも安心して出かけられます。」と半蔵は答えた。「わたしは黙って家を出るようなことはしません。庄屋には庄屋の道もあろうと考えますし、黙って家を飛び出して行くくらいなら、もともと何もそんなに心配することはなかったんです。」


 半蔵が行こうとしている名古屋の方には、京大坂の事情を探るに好都合な種々の手がかりがあった。木曾は尾州領である関係から、馬籠の本陣問屋を兼ねた彼の家は何かにつけて藩との交渉も多い。父吉左衛門は多年尾州公のお勝手元《かってもと》に尽力した縁故から、永代苗字帯刀《えいたいみょうじたいとう》を許されたり、領主に謁見することをすら許されたりしている。この便宜に加えて、藩の勘定奉行《かんじょうぶぎょう》、材木奉行、作事奉行なぞは毎年街道を下って来るたびに、必ず彼の家に休息するか宿泊するかの人たちであるばかりでなく、名古屋の家中衆のなかには平田門人らが志を認めている人もすくなくない。藩黌《はんこう》明倫堂《めいりんどう》の学則が改正
前へ 次へ
全217ページ中168ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング