気は堪《た》えがたい。降蔵と同行した人足も多くそこで果てた。それからも雪は毎日降り続き、峠は幾重《いくえ》にもかさなっていて、前後の日数も覚えないくらいにようやく北国街道の今庄宿《いまじょうじゅく》までたどり着いて見ると、町家は残らず土蔵へ目塗りがしてあり、人一人も残らず逃げ去っていた。もっとも食糧だけは家の前に出してあって、なにぶん火の用心頼むと張り紙をしてあった。その今庄を出てさらに峠にかかるころは深い雪が浪士一行を埋《うず》めた。家数四十軒ほどある新保村《しんぽむら》まで行って、一同はほとんど立ち往生の姿であった。その時の浪士らはすでに加州|金沢藩《かなざわはん》をはじめ、諸藩の大軍が囲みの中にあった。
降蔵の話によると、彼は水戸浪士中の幹部のものが三、四人の供を連れ、いずれも平服で加州の陣屋へ趣《おもむ》くところを目撃したという。加州からも平服で周旋に来て、浪士らが京都へ嘆願の趣はかなわせるようせいぜい尽力するとの風聞であった。それから加州方からは毎日のように兵糧の応援があった。米、菜の物、煮豆など余るくらい送ってくれた。降蔵らもにわかに閑暇《ひま》になったから、火|焚《た》きその他の用事を弁じ、米も洗えば醤油《しょうゆ》も各隊へ持ち運んだ。師走《しわす》も十日過ぎのこと、浪士らの所持する武器はすべて加州侯へお預けということになった時、副将田丸稲右衛門や参謀山国|兵部《ひょうぶ》らは武田耕雲斎を諫《いさ》め、武器を渡すことはいかにも残念であると言って、その翌日の暁《あけ》八つ時《どき》を期し囲みを衝《つ》いて切り抜ける決心をせよと全軍に言い渡し、降蔵らまで九つ時ごろから起きて兵糧を炊《た》いたが、とうとう耕雲斎の意見で浪士軍中の鎗や刀は全部先方へ渡してしまった。二十五、六日のころには一同は加州侯の周旋で越前の敦賀《つるが》に移った。そこにある三つの寺へ惣《そう》人数を割り入れられ、加州方からは朝夕の食事に肴《さかな》を添え、昼は香の物、酒も毎日一本ずつは送って来た。手ぬぐい、足袋《たび》、その他、手厚い取り扱いで、病人には薬を与え、医師まで出張して来て高価な薬品をあてがわれたが、その寺で病死した浪士も多かった。
正月の二十七日は浪士らが加州侯の手を離れて幕府総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》に引き渡された日であった。その日は加州から浪士一同へ酒肴《しゅこう
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