できた。伊那の谷に来て隠れてからこのかた、あちこちと身を寄せて世を忍んでいるような正香も、こうして一同が集まったところで見ると、さすがに先輩だ。小野村の倉沢|義髄《よしゆき》を初めて平田鉄胤の講筵《こうえん》に導いて、北伊那に国学の種をまく機縁をつくったほどの古株だ。
「世の中はおもしろくなって来ましたね。」
 だれが言い出すともないその声、だれが言いあらわして見せるともないその新しいよろこびは、一座のものの顔に読まれた。山吹社中のものが持って来た下相談は、言わば内輪《うちわ》の披露《ひろう》で、大体の輪郭に過ぎなかったが、もしこの条山神社創立の企てが諸国同門の人たちの間に知れ渡ったらどんな驚きと同情とをもって迎えられるだろう、第一京都の方にある師鉄胤はどんなに喜ばれるだろう、そんな話でその日の集まりは持ち切った。


「暮田さん、わたしたちの宿屋まで御一緒にいかがですか。」
 半蔵は二人の友だちと共に正香を誘った。その晩は飯田の親戚の家に泊まるという松尾誠と別れて、四人一緒に旅籠屋《はたごや》をさして歩いた。
 正香は思い出したように、
「青山君、わたしも今じゃあの松尾家に居候《いそうろう》でさ。京都からやって来た時はいろいろお世話さまでした。あの時は二日二晩も歩き通しに歩いて、中津川へたどり着くまでは全く生きた心地《ここち》もありませんでした。浅見君のお留守宅や青山君のところで御厄介《ごやっかい》になったことは忘れませんよ。」
 半蔵らの旧師宮川寛斎が横浜引き揚げ後にその老後の「隠れ家《が》」を求めた場所も伴野であり、今またこの先輩が同じ村の松尾家に居候だと聞くことも、半蔵らの耳には奇遇と言えば奇遇であった。伊那の方へ来て聞くと、あの寛斎老人が伴野での二、三年はかなり不遇な月日を送ったらしい。率先した横浜貿易があの旧師に祟《たた》った上に、磊落《らいらく》な酒癖から、松尾の子息《むすこ》ともよくけんかしたなぞという旧《ふる》い話も残っていた。
「伊勢《いせ》の方へ行った宮川先生にも、今度の話を聞かせたいね。」
「あの老人のことですから、山吹に神社ができて平田先生なぞを祭ると知ったら、きっと落涙するでしょう。」
「喜びのあまりにですか。そりゃ、人はいろいろなことを言いますがね、あの宮川先生ぐらい涙の多い人を見たことはありません。」
 三人の友だちの間には、何かにつ
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