の随一なる尾州の縄張《なわば》りの内にある。江戸幕府の権力も直接にはその地方に及ばない。東美濃と南信濃とでは、領地関係もおのずから異なっているが、そこに籍を置く本陣問屋庄屋なぞの位置はやや似ている。あるところは尾州旗本領、あるところはいわゆる交代寄り合いの小藩なる山吹領というふうに、公領私領のいくつにも分かれた伊那地方が篤胤研究者の苗床《なえどこ》であったのも、決して偶然ではない。たとえば暮田正香《くれたまさか》のような幕府の注意人物が小野の倉沢家にも、田島の前沢家にも、伴野《ともの》の松尾家にも、座光寺の北原家にも、飯田の桜井家にも、あるいは山吹の片桐家にもというふうに、巡行寄食して隠れていられるのも、伊那の谷なればこそだ。また、たとえば長谷川《はせがわ》鉄之進、権田直助《ごんだなおすけ》、落合|直亮《なおあき》らの志士たちが小野の倉沢家に来たり投じて潜伏していられるということも、この谷なればこそそれができたのである。
 町の有志の家に集まる約束の時が来た。半蔵は二人の友だちと同じように飯田の髪結いに髪を結わせ、純白で新しい元結《もとゆい》の引き締まったここちよさを味わいながら一緒に旅籠屋《はたごや》を出た。時こそ元治《げんじ》元年の多事な年の暮れであったが、こんなに友だちと歩調を合わせて、日ごろ尊敬する諸大人のために何かの役に立ちに行くということは、そうたんと来そうな機会とも思われなかったからで。三人連れだって歩いて行く中にも、一番年上で、一番左右の肩の釣合《つりあ》いの取れているのは景蔵だ。香蔵と来たら、隆《たか》く持ち上げた左の肩に物を言わせ、歩きながらでもそれをすぼめたり、揺《ゆす》ったりする。この二人に比べると、息づかいも若く、骨太《ほねぶと》で、しかも幅の広い肩こそは半蔵のものだ。行き過ぎる町中には、男のさかりも好ましいものだと言いたげに、深い表格子の内からこちらをのぞいているような女の眸《ひとみ》に出あわないではなかったが、三人はそんなことを気にも留めなかった。その日の集まりが集まりだけに、半蔵らはめったに踏まないような厳粛な道を踏んだ。


 新しい社《やしろ》を建てる。荷田春満《かだのあずままろ》、賀茂真淵《かものまぶち》、本居宣長、平田篤胤、この国学四大人の御霊代《みたましろ》を置く。伊那の谷を一望の中にあつめることのできる山吹村の条山《じょう
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