江戸両国の橋の上から丑寅《うしとら》の方角に遠く望んだ人たちの動きが、わずか一月《ひとつき》近くの間に伊那の谷まで進んで来ようとは半蔵の身にしても思いがけないことであった。水戸の学問と言えば、少年時代からの彼が心をひかれたものであり、あの藤田東湖の『正気《せいき》の歌』なぞを好んで諳誦《あんしょう》したころの心は今だに忘れられずにある。この東湖先生の子息《むすこ》さんにあたる人を近くこの峠の上に、しかも彼の自宅に迎え入れようとは、思いがけないことであった。平田門人としての彼が、水戸の最後のものとも言うべき人たちの前に自分を見つける日のこんなふうにして来ようとは、なおなお思いがけないことであった。
別に、半蔵には、浪士の一行に加わって来るもので、心にかかる一人の旧友もあった。平田同門の亀山嘉治《かめやまよしはる》が八月十四日|那珂港《なかみなと》で小荷駄掛《こにだがか》りとなって以来、十一月の下旬までずっと浪士らの軍中にあったことを半蔵が知ったのは、つい最近のことである。いよいよ浪士らの行路が変更され、参州街道から東海道に向かうと見せて、その実は清内路より馬籠、中津川に出ると決した時、二十六日馬籠泊まりの触れ書と共にあの旧友が陣中からよこした一通の手紙でその事が判然《はっきり》した。それには水戸派尊攘の義挙を聞いて、その軍に身を投じたのであるが、寸功なくして今日にいたったとあり、いったん武田藤田らと約した上は死生を共にする覚悟であるということも認《したた》めてある。今回下伊那の飯島というところまで来て、はからず同門の先輩暮田正香に面会することができたとある。馬籠泊まりの節はよろしく頼む、その節は何年ぶりかで旧《むかし》を語りたいともある。
「半蔵さん、この騒ぎは何事でしょう。」
と言って、隣宿|妻籠《つまご》本陣の寿平次はこっそり半蔵を見に来た。
その時は木曾福島の代官山村氏も幕府の命令を受けて、木曾谷の両端へお堅めの兵を出している。東は贄川《にえがわ》の桜沢口へ。西は妻籠の大平口へ。もっとも、妻籠の方へは福島の砲術指南役|植松菖助《うえまつしょうすけ》が大将で五、六十人の一隊を引き連れながら、伊那の通路を堅めるために出張して来た。夜は往還へ綱を張り、その端に鈴をつけ、番士を伏せて、鳴りを沈めながら周囲を警戒している。寿平次はその妻籠の方の報告を持って、馬籠
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