ずっと引きこもりがちに暮らして来た彼だ。こんなに宿場の様子が案じられ、人のうわさも気にかかって、忰《せがれ》の留守に問屋場《といやば》の方まで見回ろうという心を起こしたのは、彼としてもめずらしいことであった。
当時、将軍|家茂《いえもち》は京都の方へ行ったぎりいまだに還御《かんぎょ》のほども不明であると言い、十一隻からのイギリスの軍艦は横浜の港にがんばっていてなかなか退却する模様もないと言う。種々《さまざま》な流言も伝わって来るころだ。吉左衛門の足はまず孫たちのいる本陣の母屋《もや》の方へ向いた。
「やあ、例幣使《れいへいし》さま。」
母屋の囲炉裏《いろり》ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って子供に戯れている。おまん(吉左衛門の妻)も裏二階の方から来て、お民(半蔵の妻)と一緒になっている。家族のあるものはすでに早い朝の食事をすまし、あるものはまだ膳《ぜん》に向かっている。そこへ吉左衛門がはいって行った。
「いゝえ、正己《まさみ》は例幣使さまじゃありません。」とおまんが三番目の孫に言って見せる。
「おとなしくして御飯《おまんま》を食べるものは、例幣使さまじゃないで。」とまた佐吉が言う。囲炉裏ばたのすみのところに片足を折り曲げ、食事をするにも草鞋《わらじ》ばきのままでやるのがこの下男の癖だった。
「佐吉、おれは例幣使さまじゃないぞい。」
と総領の宗太が言い出したので、囲炉裏ばたに集まっているものは皆笑った。
吉左衛門の孫たちも大きくなった。お粂《くめ》は八歳、宗太は六歳、三番目の正己が三歳にもなる。どうして例幣使のことがこんなに幼いものの口にまで上るかと言うに、この街道筋ではおよそやかましいものの通り名のようになっていたからで。道中で人足《にんそく》をゆすったり、いたるところの旅館で金を絞ったり、あらゆる方法で沿道の人民を苦しめるのも、京都から毎年きまりで下って来るその日光例幣使の一行であった。百姓らが二百十日の大嵐《おおあらし》にもたとえて恐怖していたのも、またその勅使代理の一行であった。公卿《くげ》、大僧正《だいそうじょう》をはじめ、約五百人から成るそれらの一行が金《きん》の御幣を奉じてねり込んで来て、最近にこの馬籠の宿でも二十両からの祝儀金《しゅうぎきん》をねだって通り過ぎたのは、ちょうど半蔵が王滝の方へ行っている留守の時だった。
吉左衛門は広い
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