の日は稲雄と一緒に歩いた。別れぎわに浪士らは、稲雄の骨折りを感謝し、それに報いる意味で記念の陣羽織を贈ろうとしたが、稲雄の方では幕府の嫌疑《けんぎ》を慮《おもんぱか》って受けなかった。
 その日の泊まりと定められた駒場《こまば》へは、平田派の同志のものが集まった。暮田正香と松尾誠《まつおまこと》(松尾|多勢子《たせこ》の長男)とは伴野《ともの》から。増田平八郎《ますだへいはちろう》と浪合佐源太《なみあいさげんた》とは浪合から。駒場には同門の医者山田|文郁《ぶんいく》もある。武田本陣にあてられた駒場の家で、土地の事情にくわしいこれらの人たちはこの先とも小藩や代官との無益な衝突の避けられそうな山国の間道を浪士らに教えた。その時、もし参州街道を経由することとなれば名古屋の大藩とも対抗しなければならないこと、のみならず非常に道路の険悪なことを言って見せるのは浪合から来た連中だ。木曾路から中津川辺へかけては熱心な同門のものもある、清内路《せいないじ》の原|信好《のぶよし》、馬籠《まごめ》の青山半蔵、中津川の浅見景蔵、それから峰谷《はちや》香蔵なぞは、いずれも水戸の人たちに同情を送るであろうと言って見せるのは伴野から来た連中だ。
 清内路を経て、馬籠、中津川へ。浪士らの行路はその時変更せらるることに決した。
「諸君――これから一里北へ引き返してください。山本というところから右に折れて、清内路の方へ向かうようにしてください。」
 道中掛りはそのことを諸隊に触れて回った。
 伊那の谷から木曾の西のはずれへ出るには、大平峠《おおだいらとうげ》を越えるか、梨子野峠《なしのとうげ》を越えるか、いずれにしても奥山の道をたどらねばならない。木曾下四宿への当分|助郷《すけごう》、あるいは大助郷の勤めとして、伊那百十九か村の村民が行き悩むのもその道だ。木から落ちる山蛭《やまびる》、往来《ゆきき》の人に取りつく蚋《ぶよ》、勁《つよ》い風に鳴る熊笹《くまざさ》、そのおりおりの路傍に見つけるものを引き合いに出さないまでも、昼でも暗い森林の谷は四里あまりにわたっている。旅するものはそこに杣《そま》の生活と、わずかな桑畠《くわばたけ》と、米穀も実らないような寒い土地とを見いだす。その深い山間《やまあい》を分けて、浪士らは和田峠合戦以来の負傷者から十数門の大砲までも運ばねばならない。

       三


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