としかけたら、たとえ多人数が押し寄せて来ても右の一手で何ほどか防ぎ止めることができよう、そのうちには追い追い味方の人数も出張するであろう、物頭はその用意のために雨中を奔走した。手を分けてそれぞれ下知《げじ》を伝えた。それを済ましたころにはもう昼時刻だ。物頭が樋橋《といはし》まで峠を降りて昼飯を認《したた》めていると、追い追いと人足も集まって来た。
 諏訪城への注進の御使番は間もなく引き返して来て、いよいよ人数の出張があることを告げた。そのうちに二十八人の番士と十九人の砲隊士の一隊が諏訪から到着した。別に二十九人の銃隊士の出張をも見た。大砲二百目|玉筒《たまづつ》二|挺《ちょう》、百目玉筒二挺、西洋流十一寸半も来た。その時、諏訪から出張した藩士が樋橋《といはし》上の砥沢口《とざわぐち》というところで防戦のことに城中の評議決定の旨《むね》を物頭に告げた。東餅屋、西餅屋は敵の足だまりとなる恐れもあるから、代官所へ申し渡してあるように両餅屋とも焼き払う、桟《かけはし》も取り払う、橋々は切り落とす、そんな話があって、一隊の兵と人足らは峠の上に向かった。
 ちょうど松本藩主|松平丹波守《まつだいらたんばのかみ》から派遣せられた三百五十人ばかりの兵は長窪《ながくぼ》の陣地を退いて、東餅屋に集まっている時であった。もともと松本藩の出兵は追討総督田沼|玄蕃頭《げんばのかみ》の厳命を拒みかねたので、沿道警備のため長窪まで出陣したが、上田藩も松代藩《まつしろはん》も小諸藩《こもろはん》も出兵しないのを知っては単独で水戸浪士に当たりがたいと言って、諏訪から繰り出す人数と一手になり防戦したい旨《むね》、重役をもって、諏訪方へ交渉に来た。諏訪方としては、これは思いがけない友軍を得たわけである。早速、物頭《ものがしら》は歓迎の意を表し、及ばずながら諏訪藩では先陣を承るであろうとの意味を松本方の重役に致《いた》した。両餅屋焼き払いのこともすでに決定せられた。急げとばかり、東餅屋へは松本勢の手で火を掛け、西餅屋に控えていた諏訪方の兵は松本勢の通行が全部済むのを待って餅屋を焼き払った。
 物頭は樋橋《といはし》にいた。五、六百人からの人足を指揮して、雨中の防禦工事を急いでいた。そこへ松本勢が追い追いと峠から到着した。物頭は樋橋下の民家を三軒ほど貸し渡して松本勢の宿泊にあてた。松本方の持参した大砲は百目
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