だろうか。そう思って半蔵がこの宿のかみさんを見ると、お隅は正直ということをその娘に教え、それさえあればこの世にこわいもののないことを言って聞かせ、こうと彼女が思ったことに決して間違った例《ためし》のないのもそれは正直なおかげだと言って、その女の一心にまだ幼いお三輪を導こうとしている。
「青山さん、あなたの前ですが、青表紙《あおびょうし》の二枚や三枚読んで見たところで、何の役にも立ちますまいねえ。」
「どうもおかみさんのような人にあっちゃ、かないませんよ。」
この家へは、亭主が俳友らしい人たちも訪《たず》ねて来れば、近くに住む相撲《すもう》取りも訪ねて来る。かみさんを力にして、酒の席を取り持つ客商売から時々息抜きにやって来るような芸妓《げいぎ》もある。かみさんとは全く正反対な性格で、男から男へと心を移すような女でありながら、しかもかみさんとは一番仲がよくて、気持ちのいいほど江戸の水に洗われたような三味線《しゃみせん》の師匠もよく訪ねて来る。
お隅は言った。
「不景気、不景気でも、芝居《しばい》ばかりは大入りですね。春の狂言なぞはどこもいっぱい。どれ――青山さんに、猿若町《さるわかちょう》の番付《ばんづけ》をお目にかけて。」
相生町ではこの調子だ。
六月の江戸出府以来、四月近くもむなしく奉行の沙汰《さた》を待つうちに、旅費のかさむことも半蔵には気が気でなかった。東片町《ひがしかたまち》にある山村氏の屋敷には、いろいろな家中衆もいるが、木曾福島の田舎侍《いなかざむらい》とは大違いで、いずれも交際|上手《じょうず》な人たちばかり。そういう人たちがよく半蔵を誘いに来て、広小路《ひろこうじ》にかかっている松本松玉《まつもとしょうぎょく》の講釈でもききに行こうと言われると、帰りには酒のある家へ一緒に付き合わないわけにいかない。それらの人たちへの義理で、幸兵衛や平助と共にある屋敷へ招かれ、物数奇《ものずき》な座敷へ通され、薄茶《うすちゃ》を出されたり、酒を出されたり、江戸の留守居とも思われないような美しい女まで出されて取り持たれると、どうしても一人前につき三|分《ぶ》ぐらいの土産《みやげ》を持参しなければならない。半蔵は国から持って来た金子《きんす》も払底《ふってい》になった。もっとも、多吉方ではむだな金を使わせるようなことはすこしもなく、食膳《しょくぜん》も質素ではあるが
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