たりの留守居役を通しても、もっとてきぱき運ぶ方法がありはしないかなどと謎《なぞ》をかけるものがある。そんな無責任な人の言うことが一層半蔵をさびしがらせた。
「さぞ、御退屈でしょう。」
 と言って相生町《あいおいちょう》の家の亭主《ていしゅ》が深川の米問屋へ出かける前に、よく半蔵を見に来る。四か月も二階に置いてもらううちに、半蔵はこの人を多吉さんと呼び、かみさんをお隅《すみ》さんと呼び、清元《きよもと》のけいこに通《かよ》っている小娘のことをお三輪《みわ》さんと呼ぶほどの親しみを持つようになった。
「青山さん、宅じゃこんな勤めをしていますが、たまにお暇《ひま》をもらいまして、運座《うんざ》へ出かけるのが何よりの楽しみなんですよ。ごらんなさい、わたしどもの家には白い団扇《うちわ》が一本も残っていません。一夏もたって見ますと、どの団扇にも宅の発句《ほっく》が書き散らしてあるんですよ。」
 お隅がそれを半蔵に言って見せると、多吉は苦笑《にがわら》いして、矢立てを腰にすることを忘れずに深川米の積んである方へ出かけて行くような人だ。
 筑波《つくば》の騒動以来、関東の平野の空も戦塵《せんじん》におおわれているような時に、ここには一切の争いをよそにして、好きな俳諧《はいかい》の道に遊ぶ多吉のような人も住んでいた。生まれは川越《かわごえ》で、米問屋と酒問屋を兼ねた大きな商家の主人であったころには、川越と江戸の間を川舟でよく往来したという。生来の寡欲《かよく》と商法の手違いとから、この多吉が古い暖簾《のれん》も畳《たた》まねばならなくなった時、かみさんはまた、草鞋《わらじ》ばき尻端折《しりはしょ》りになって「おすみ団子《だんご》」というものを売り出したこともあり、一家をあげて江戸に移り住むようになってからは、夫《おっと》を助けてこの都会に運命を開拓しようとしているような健気《けなげ》な婦人だ。
 そういうかみさんはまだ半蔵が妻のお民と同年ぐらいにしかならない。半蔵はこの婦人の顔を見るたびに、郷里の本陣の方に留守居するお民を思い出し、都育ちのお三輪の姿を見るたびに、母親のそばで自分の帰国を待ち受けている娘のお粂《くめ》を思い出した。徳川の代ももはや元治年代の末だ。社会は武装してかかっているような江戸の空気の中で、全く抵抗力のない町家の婦人なぞが何を精神の支柱とし、何を力として生きて行く
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